第31話:【境界】歪んだコンプライアンス
本部の視察団を連れて向かったのは、駅ビル最上階にある完全予約制のワインバーだった。
磨き上げられたクリスタルグラスが夜景を反射し、重厚なジャズが流れる空間。
凛は、ソファの端っこで膝を揃え、拳を握りしめさっきまでの無双っぷりが嘘のように「借りてきた猫」状態だ。
「改めて乾杯しよう。佐倉さん、君の技術は本部のクリエイティブチームでも通用する」
松本が、獲物を狙うような笑みで凛のすぐ隣に座り直した。
ぐいっと距離を詰め、彼女の肩に触れそうな距離まで身を乗り出す。
「いや、本当に東京こない??絶対佐倉さん重宝されるよ。俺から本部に推薦しようか。佐藤よりいいバディになれそうなんだけど」
すると凛は、弾かれたように背筋を伸ばし、ロボットのような動きで松本に向き直った。
「……っ、も、申し訳ございません! 滅相もございません!光栄の至りに存じます!」
「えっ……? あ、いや、褒めてるんだよ?」
「今後のスキームにおきまして、何卒ご指導ご鞭撻のほど、伏してお願い申し上げ奉ります!」
凛の口から飛び出したのは、さっきまでのキレ味鋭い毒舌ではなく、パニックを起こし、システムがショートしたような、支離滅裂な「超・ビジネス敬語」だった。
あまりの変人ぶりに、松本は毒を吐かれるより戸惑っている。
松本は僕の隣まで逃げてくると、グラスの酒を一気に煽り、小声で詰め寄ってきた。
「おい、佐藤。ごめん。俺苦手なタイプ」
口説きが通じないと判断したのだろう。
「なぁ……入社してすぐ付き合ってた綾瀬を忘れたのか!? あぁいう社交的で完璧な『受付嬢の鑑』みたいなのが好みじゃなかったの?何で今はこんな情緒不安定な女を……」
「松本。こんな所で言うなよな。聞こえるよ」
「……あ、ああ、すまんすまん。ついな。あまりに今の彼女が……その、可笑しかったから(笑)」
松本は悪びれもせず笑う。そもそも、佐倉さんは彼女じゃない、僕の部下だ。
松本が離れると、凛は歳が近いせいか、本部の新人二人とポツポツと言葉を交わしていた。
松本のような「強引な肉食系」は苦手なのだろう。
「……はぁ」
「……なんだよ、佐藤?」
「いや、お前がモテない理由が少しわかった気がしただけだ」
「はぁ!?めちゃくちゃモテるんですけど!なんならお前が居なくなって、俺に集中しちゃって困ってるくらいよ?」
松本はニヤリと口角を上げ、さらに言葉を続ける。
「……なぁ佐藤。お前、鳴凪に来て、牙が全部抜けたんじゃないのか?ついこないだまで、みんなお前に夢中で、お前に繋げだの頼まれて面倒くさいのなんってさ」
「……うるさい。」
(悪酔いしてるのか?いや、前からこんな嫌な男だったな)
「お前、今のぬるそうな支店で甘んじっちゃてんじゃない?変な子に興味もっちゃって……」
松本が僕の肩をポンと叩く。
その目は真面目なようでいて、決定的に僕を馬鹿にしている。
僕は何も言えなかった。
この五月雨式の暴走に振り回される毎日に、僕はどこか安らぎを覚えていたからだ。
(……牙は抜けてない。……今はただ、隠してるだけだ)
僕はグラスの酒を飲み干し、松本を無視して時計を見る。
「……あ、22時になる」
僕が左腕を上げた瞬間、デジタル数字が刻まれる音が響いた。
「……ん? なんだ佐藤、その時計。ぶはっ! なんだよ、それ!」
松本が爆笑する。
しまった、つい使い勝手が良くてつけてきてしまった。
「笑うな、松本。時間は正確だ。……飲酒コンプライアンスは『22時を超える飲み方禁止』。領収書も時間記載必須。……一分でも過ぎれば、この高いワイン代は一切経費精算できなくなるぞ」
「……げっ! マジかよ、今のうちに会計通さないと……!」
松本は慌ててレジへと猛ダッシュした。
無事22時ジャストで会計を通した松本たちは領収書を握りしめ、達成感と共にシティホテルへと消えていった。
一方、僕と凛は——全力で走った甲斐もなく、最終バスのテールランプを遠くに見送ることになった。
「……あちゃー。巧ちゃま、行っちゃいましたね、バス」
街灯の下、凛がふらりとよろめいた。
初めて見る、酔った彼女の姿。
頬はほんのりと林檎色に染まり、いつもなら絶対にしないような無防備な足取りだ。
「……仕方ない。配車アプリでタクシー呼んだから。あと8分だ……大丈夫?」
「だいじょーぶですよぉ。あ、そうだ巧ちゃま! 見てくださいこれ!」
凛が嬉しそうにスマホを突き出してきた。
画面には、見慣れないメッセージアプリのQRコード。
「さっき、新人の……えっと、中山さんと連絡先交換しました! 私、初めて本部の『友達』ができました!」
(……は?)
僕は一瞬、自分の聴覚を疑った。
「……それは業務連絡用のチャットツールか何かですか?」
「えー? 多分? 私用のやつですかね? 個人のスマホでいいですよって言ってましたよぉ。エモいスタンプとか送られてきちゃいました」
凛はふにゃりと笑いながら、画面をタップする。
(……ありえない。本部のコンプライアンスはどうなっているんだ)
いや、コンプライアンスの問題ではない。
このカミソリ娘が、たった数時間の飲み会で、しかも「本部の男」と私用アドレスを交換したと?
「……見せて」
僕は奪い取るように彼女のスマホを覗き込んだ。
そこには確かに、中山という男から『今日はありがとうございました!今度また詳しく教えてください^^』という、下心が見え隠れする軽薄なメッセージが届いていた。
(……っ、うわ、ありえない)
「中山さん、私の『ッパーン』に感動したって……」
(……消して。今すぐ……)
言えない。
深夜の静寂の中で、僕の独占欲を静かに、そして確実に蝕んでいく。
何より——僕は彼女の個人的な連絡先を知らないというのに。
ポスっ。
「……え?!」
後ろから、凛が抱きついてきた。
(な、なんで???)
僕は満員電車で冤罪にならないようにするサラリーマンのように、両手を瞬時に上げた。
相当酔っているのか。
松本と話していて、あまり様子を見ていなかった。何杯飲んだ?
「お疲れ様でした」
「……え?」
「お疲れ様でした……。巧くん。」
背中越しに届く、熱を帯びた声。
いつものふざけた『ちゃま』付けじゃない。
熱を帯びた、掠れた声で。
背中越しに響いた、僕の本当の名前。
そのたった三文字が、僕の中に渦巻いていた醜い嫉妬や跡形もなく焼き尽くしていく。
(ずるいな……。)
タクシーのライトが遠くに見えた。
僕は上げたままの両手を、行き場を失くしたまま、ゆっくりと握りしめた。




