第26話:【共鳴】爆速ロジックと紅の要塞
全ての撮影と書類精査が終わる頃には、日は完全に落ちていた。
革靴の底を通して伝わっていたコンクリートの冷たさは、いつの間にか足全体の鈍いしびれに変わっている。
「佐藤くん、今日はお疲れさん!助かった!また案件あったら協力よろしく!」
先に片付けを終えていた営業部のひとりが、清々しい笑顔で僕の肩を叩いた。
親会社から来た「監査役」のような僕を、当初は遠巻きに見ていた彼ら。
けれど、一緒に汗をかき図面を引き直すことで、認識が初めて「味方」に変わった瞬間だったのだ。
「じゃ、俺たちは打ち上げ行ってきまーす!」
「飲みすぎるなよー!」
営業部の面々が、嵐のように夜の街へと消えていく様子を、久しぶりの現場の充実感いっぱいの榎木さんが見送る。
残されたのは今日一日僕を赤子のように世話した凛と、それを知らない榎木さんの三人だけだった。
「さて。行こうか、僕らの打ち上げに、佐倉さん!」
「はい! 榎木さん、巧ちゃまも連れていきましょう!」
(……またその呼び方か。)
僕は抗議する気力もなく、重い足取りで二人の後をついていった。
やってきたのは、国道沿いにある黄色い看板の牛丼屋だった。
以前、凛が「爆速・コスパ最強のロジック」と豪語していた、あの店だ。
「佐藤くん、今日は私のおごりだ。好きなのを頼みたまえ。なに、これくらいは経費……ではなく、私の『徳』を積むための投資だよ」
恐らく3人で2000円もしないであろう、小さな徳である。
榎木さんが、なけなしのお小遣いが入っているであろう財布を、宝物のように握りしめて笑う。
(結婚すると、色々大変なんだな……)
カウンターに座ると、凛が手慣れた動作で「つゆだく三つ、玉子三つ!」とオーダーを通した。
数秒後、目の前に湯気を立てる丼が置かれる。
磨き上げられたグラスや、繊細な盛り付けのイタリアンサラダはない。
あるのは、紅生姜の容器と割り箸。
そして、食欲をそそる醤油と肉の香り。
「巧ちゃま、これが鳴凪のガソリンですよ。ほら、冷めないうちに」
凛に促され、滅多に食べない「爆速ロジック」を口にした。
(……熱。そして、濃いな……。)
喉を通る熱が、現場で冷え切った身体にじわじわと染み渡っていく。
「巧ちゃま、止まってますよ。紅生姜、入れます? これ、血液サラサラになりますから」
凛が事も無げに、僕の丼へ真っ赤な山を築き上げようとした。
「……っ、やめてください! 僕、紅生姜嫌いなんです! これが入ったら、牛丼が全部紅生姜味に支配されて食べられなくなります!」
(普通は聞いてから入れるんだよ!本当に腹が立つ!)
僕は食い気味に叫ぶと、自分の丼に不法投棄されかけた真っ赤な物体を、箸で器用に――かつ、一欠片の「汚染」も許さない執念で――すべて凛の丼へと突き返した。
だが、それだけでは終わらない。
僕はカウンターに置かれた紅生姜の容器を掴み取ると、すでに彼女自身の手によって真っ赤に染まっていた彼女の丼へ、さらにその山を積み上げた。
「……っ!? ちょ、巧ちゃま!? ストップ、ストップです!」
「倍返しだ!!」
「そんなドラマみたいなこと言ってる場合じゃありませんって! 流石にこれ、標高が高すぎます! 牛も米も見えません!!」
(思い知れ!!!)
凛の丼は、もはや「紅生姜の要塞」と化していた。
もともと盛り盛りに入れていたものに、さらに積み上げられた真っ赤な山を前に、箸を止めて呆然としている。
「(ざまぁみろ! )これが、昼間に僕を勝手に餌付けした報いですよ、佐倉さん」
僕は勝ち誇ったように鼻で笑った。
エリートとしての冷静さも、親会社からのプライドも、この瞬間の快感の前では無価値だ。
「……むぅ。巧ちゃま、意外と根に持つタイプなんですね。……わかりましたよ、食べればいいんでしょ、食べれば!」
「次、巧ちゃまって呼んだら、10倍返しですよ。」
凛は涙目になりながら、僕が築いた「紅の要塞」を必死に崩し始めた。
シャキシャキ、シャキシャキ……と、もはや肉の咀嚼音ではない音が隣から響く。
だが、数口食べたところで、凛の箸がピタリと止まった。
やはり、物理的な限界はロジックを超えるのだ。
「……やっぱり無理。これ、ただの酢の味しかしません。……はい、榎木さん。半分こです!」
「……えっ?」
凛は、持て余した紅生姜の山を、あろうことか隣で温和に微笑んでいた榎木さんの丼へと、一気にスライドさせた。
「ちょっと、佐倉さん!? 榎木さんはおごってくれてるんだぞ!」
「いいんです、榎木さんは徳を積んでるんですから! はい、榎木さん、あーん!」
凛はスプーンに山盛りの紅ショウガと僅かな米を乗せる。
「あ、あーん……。……うむ、酸っぱいな。これは、なかなかの修行だね……」
榎木さんは困ったように眉を下げながらも、押し付けられた「真っ赤な徳」を、静かに受け入れ始めた。
その姿は、ただの「いい人すぎるおじさん」でもあった。
(……ふ。爆速・コスパ最強のロジックを逆手に取った、完璧な反撃だ。でも迷惑行為ギリギリになったのは、完食したから許してほしい。)
「……やっぱり紅生姜は適量がロジックですね」と反省し始めた凛の呟きを聞きながら、勝利の味(ほうじ茶)を優雅に流し込んだ。
凛を見ると唇と割り箸をピンク色にして、なんとか完食していた。
僕は無言で鞄から個包装のウェットティッシュを取り出すと、それを彼女の前に置いた。
「……佐倉さん。それ、使ってください。口元が、その……とんでもないことになってますよ」
「あ、……ありがとうございます、先輩。本当ですよ。誰のせいでこんな毒々しい口になったと思ってるんですか」
凛は恨めしそうに僕を睨みながらも、ウェットティッシュを受け取ってゴシゴシと口を拭き始めた。
その姿は、先ほどの「紅生姜モンスター」ではなくただの疲れた後輩になっていた。
(……ああ、くそ。なんで僕は、こんなにこの光景を嫌いになれないんだ)
勝利したようで、凛の何ともいえない表情を見て敗者のような気持ちになっていた。
僕は、まだ酸っぱそうにしている榎木さんの背中をそっとさすった。




