第25話:【餌付】海苔の風味とほうじ茶
朝から工事の進捗に合わせて撮影を開始した。
補助金申請用の黒板(撮影ボード)を僕が掲げ、凛がシャッターを切る。
時折、凛がレンズを工事対象ではなく、僕だけにピントを合わせているのが指先の動きで分かった。
(また余計なことに使うんじゃないか……)
撮影されたデータは、彼女のiPhoneから僕のタブレットへと次々にドロップされ、僕はそれを部屋番号ごとにナンバリングしていく。
マンションの部屋番号は、時折意地悪なほどに「飛び番号」が存在した。
その度に凛と非常階段を上下し、現地の状況に合わせた簡易図面を起こしては、データを同期させていく。
(……なぜ、僕は革靴で来てしまったのか。)
足の裏から伝わるコンクリートの冷たさと硬さが、じわじわと体力を削っていく。
隣を歩く凛はパンツスタイルに、足元はしっかりと重厚な安全靴だった。
現場を知らないという事実を、一歩歩くごとに突きつけられているようで、自分自身に腹が立つ。
これが、凛がいつも口にする「泥臭い現場感」というやつなのだろう。
各階の通路も、漏れなく記録に収めていく。
ドレン配管の処理方法ひとつで、補助金の上乗せ額が左右される。
絶対に、間違えられない。
(これだから、現場を知らない本部の人間が……と影で言われるのが関の山だ)
正午を告げるサイレンが鳴る。
「みんなの分、フォックスマートで買ってきますね!」
凛はそう言い残すと、驚くべき瞬発力で現場を走り去った。
意外に、と言っては失礼だが、彼女はこういう時の立ち回りが恐ろしく早い。
一人残された僕は、手持ち無沙汰を埋めるように物件オーナーからの提出書類に目を通した。
一箇所の不備、一箇所の抜かりが、後々の二度手間を招く。
この確認不足の謝罪のために再訪するのは御免だった。
僕は執念深く、一文字の誤字、一箇所の印影の掠れを精査していく。
(なんだ……? これは。海苔の風味。あ、鮭だ。)
極限の集中状態にあったせいか、僕は何も疑わず、差し出されるままにそれを口へ運んでいた。
絶妙なタイミングで、次は温かい「ほうじ茶」が喉を潤す。
誰かの咳払いが聞こえた。
(……え?)
ふと、思考の霧が晴れた。
(僕は今、何をしていた?)
咀嚼の合間に我に返り、思考が現実へと浮上する。だが、その隙を凛は見逃さなかった。
ほうじ茶で喉が整った絶好のタイミングで、視界の端から「茶色い塊」が迫りくる。
「はい、次はフォックス名物の唐揚げですよ。脂は脳のガソリンですからね。あーん」
凛が丁寧に「フーフー」と息を吹きかけ、適温に冷ましているのが分かった。返事をする間もなかった。
気がつけば、口の中はジューシーな肉汁と、どこか懐かしい濃いめの醤油味で満たされていた。
無意識のうちに、離乳食を食む赤子のようになっていたのではないか。
はっとして横を見ると、凛が——まるで献身的な母親か、あるいは躾中の飼い主のような——こぼさないように真剣な眼差しで僕を凝視していた。
「……佐倉さん。君は今、僕に何をしてた?」
「何って、巧ちゃまがあんまり必死にタブレットを睨んでるから。すぐ午後の作業始まりますから、ほら、まだありますよ。はい、あーん」
(……や、やめてくれ!! どういう発想でそうなった……! 榎木さんにもしてるのか? いや、違う。恐らくあの弟にしているように、僕を扱っているんだ……!)
周囲の工務課や開発営業課の面々から突き刺さる視線が、物理的な痛みとなって僕を襲う。
「お前たちはここへ何をしに来て、何を見せつけているんだ」という、冷ややかな、あるいは憐れみに満ちた視線。
そこには、親会社から派遣された冷静なエリートの姿は微塵もなかった。
ただ、後輩に手際よく餌付けされ、されるがままに咀嚼を繰り返す「巧ちゃま」という名の、無力な生き物がそこにいただけだった。
(巧ちゃまもなんだ!母さんだってそんな風に呼ばないよ!これは……凛ちゃんさんへの当てつけか!!)
かつて榎木さんが熱く語り、凛がポートフォリオの中で声高に訴えていた「現場の魂」や「泥臭い通過儀礼」。
ポリ袋に描かれた、どこかとぼけたキツネのロゴマークに見守られながら。
僕は、「フォックスマートで買ったおにぎりを現場で食う」というその神聖なはずの儀式を、わけのわからない餌食という形で体現していた。




