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五月雨式に失礼いたします〜ハイスペック男子と天然後輩との格差恋愛バトル〜  作者: もふおのしっぽ


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第24話:【資産価値】予期せぬペア時計

 窓の外では、営業部開発営業課に助っ人として駆り出された榎木えのきさんが、元現場人間の血を騒がせていた。





 今は僕が構築したDXフローと格闘中だが、かつて最前線で鳴らした榎木さんは、現職の開発課長を差し置いて、さながら軍師のような振る舞いを見せている。






「よし、三十世帯分、一気にエコタイプへ換装だ! 現場の魂を見せてやるぞ!」






 どこか楽しそうに作業着の袖をまくるその姿は、オフィスワークには収まりきらない野性を放っていた。





 一方で、支店長室の椅子に座っているのは、最近赴任してきたばかりの谷口たにぐち支店長だ。





 彼は数字と効率を極端に重んじるタイプで、常に眉間にシワを寄せながら「補助金の着金スピードが遅い」と、僕のiPadを叩くような目で見つめてくる。





 谷口支店長は、いわゆる「転籍組」だ。






 それも、若いうちから現場と子会社をいくつも渡り歩いてきた、叩き上げの「ガス畑の人間」である。






 大企業の社員にとって、人生はさながら現代の参勤交代だ。





 いくつもの関連子会社を転々とさせられ、最終的にどこかの土地に骨を埋める。





 五十歳までには「最終定住地」を決めなければならないという、逃れられない暗黙のルール。





 ガス一筋で生きてきた彼にとって、この鳴凪なぎがその終着駅なのだ。




 (……ここで、いいのか?)



 

 ふと、自分の未来に薄寒い風が吹き抜ける。


 いつか自分も、この鳴凪ではないどこかの土地で、同じように眉間にシワを寄せて若手のデバイスを睨みつける日が来るのだろうか。





 これは大企業の「血の入れ替え」だ。





 古い血を吐き出し、常に新しい血を注入し続けることで、組織の代謝を保つ。





 それが「新しきこと」を生み出し、企業の利益を積み上げ続ける。





 株主への「累進配当るいしんはいとう」、つまり利益を還元し続けるサイクルを止めないための、冷徹なまでのシステム。

 



 

 配当金を上げ続けるために、僕たちはこの循環サイクルの一部として組み込まれている。





 そんな重苦しい「企業の宿命」の歯車として生きる僕の腕には数十万の時計が巻かれている。

 




「佐藤くん、この行政の『いらすと』だらけの資料はなんとかならんのか。私の理解の範疇を超えているんだが」





「……同感です、谷口支店長。ですが、今はこれに従うのが最短ルートです。現場は営業企画グループも動員して回しています」





 そもそも、今回の省令改正が諸悪の根源だ。ガス器具の貸付・貸与が制限され、給湯器をオーナーの所有に切り替えなければならない。




 国が用意した膨大な補助金は、その激変に対する「痛み止め」のようなものだが、申請スキームがあまりに複雑すぎる。




 今までの投資ワークフローと根本的に違うからか、谷口支店長は匙を投げた。





 この難解な実務は、当然のように僕へと回ってきた。最初は凛に任せようとしたのだが……。





「……先輩、もうダメです。私の脳が、このパワポを異物として拒絶してます……」





 デスクに突っ伏した彼女の前には、プリントアウトされた行政の説明資料。





 一ミリの隙間も許さないほどぎゅうぎゅうに詰め込まれた役所言葉。





 そのわずかな余白を埋めるように、脈絡もなく配置された「お辞儀をするいらすとやさん」や「工事ヘルメット姿のいらすとやさん」。





 さらには関係のないサバトラの猫までが所々にあしらわれている。




(……ざっと数えても、一ページに三十個はある。無償利用の制限数を超えているんじゃないか? 作った若手は猫が好きなだけでなく、規約を読むのが苦手らしい……)




 クリエイティブな感性を持つ凛からすれば、これはもはや狂気でしかない。





 情報の過密とデザイン崩壊が生んだ、解読不能な古文書。




 だが、それがデザインのプロではない、第一種試験を突破する頭脳の持ち主――国家公務員の知性が作り出す文章としては、ある種の最適解なのだろう。





 結局、僕がデジタル申請の動線を組み、凛は「現場での撮影フォロー」という実戦部隊に回ることになった。






 ふと見ると、珍しく作業着を羽織った凛の左手首に、見慣れないものがあった。





 普段、社内にいる時は「腕が重くなるから」と時計を一切しない彼女が、今日は珍しく時計をしている。





 それは、僕が知るどの高級メゾンが作るものよりも、はるかに「薄っぺらく」、まるでおもちゃのような質感だった。





「……佐倉さん。その時計、もしかして……どこかのガシャポンの景品ですか?」



 


 僕は思わず身を乗り出して、そのプラスチックの塊を凝視した。





 無機質な液晶、安っぽいウレタンのベルト、そして『CASIO』の誇らしげなロゴ。





「失礼な! これですよ、これ。現場の最強兵器、チープカシオです! 今日は三十軒分の給湯器を撮影して回るんですよ? 配管の隙間に腕を突っ込んだり、水しぶきを浴びたりするんです。先輩のその『資産価値を気にして震えているデカ時計』じゃ、一軒目の廊下でリタイア(棄権)ですよ!」





(……資産価値を気にして、震えて……。否定できない)





「外した方がいいですよ? 傷もつれになって、後で給湯室で『僕の、僕の……資産がぁっ……!!うええーーーーん!!ママぁーー!』とかって、泣き出すのが目に見えてますから」





(……言わない。どこぞの御曹司が「ママぁー!」と泣きつくアニメの様な叫び方は絶対にしない。……だが、資産価値を気にして震えるという点では、彼女の想像は不気味なほど芯を食っている……)





 凛は呆れたように溜息をつくと、スペアだという980円の時計をグイッと僕の目の前に突き出した。





「いいですか巧ちゃま……先輩。谷口支店長は数字にうるさいし、行政のパワポはデザイン崩壊してて意味不明です。でも、時間は平等に過ぎていく。この薄っぺらい時計だけが、今の私たちにとって唯一信じられる『正確な現実』なんです!」





 (……完敗だ。)




 珍しく、凛の言っていることがすべて正論だった。





 いや、正論というより、それは暴力的なまでの「真実」として僕の胸に突き刺さった。




 手渡されたそのプラスチックの塊を凝視し、僕は言葉を失いながら裏書きを見る。




 驚くべきは、そのスペックだ。





 厚さわずか数ミリのボディに、「日常生活用強化防水」という、鳴凪の荒波や給湯器の破裂あってはならないがにも耐えうる防御力を秘めている。




 さらに、一度の電池交換で「約七年(あるいは十年)」も動き続けるという。





(僕が数年ごとに数万円をかけてメンテナンスしている機械式時計の立場はどうなる。)




 おまけに、トラックに踏まれても壊れないという逸話まであるこの究極のタフネス。




 この泥臭い現場において、僕の時計の価値は何の意味も持たない。



 

 対して、このチープカシオ。




 980円という価格で「正確さ」と「不滅」を担保するこの時計は、いわば現場における聖剣だ。




 僕は、なんだかとても恥ずかしくなり、自分の高級時計を静かに外し、デスクの引き出しの奥へと仕舞い込んだ。




「……分かった。今日は、佐倉さんのその『現実』を信じることにするよ。」





「そうでしょ! あ、その時計、バックライトも付いてるから、暗い配管裏の品番チェックもバッチリですよ!」




 強引に押し付けられ、意図せずお揃いの時計をすることになった僕たち。




 受け取ったチープカシオは驚くほど軽く、まるで僕の憑き物が落ちていくようだった。





 僕も誰かのおさがりの作業着を羽織り、いざ現場へ。




 凛の胸元には、かつてカジュアルデーで全否定された三色ボールペンが、今は誇らしげな勲章のように輝いている。





 このペア(?)時計が波紋を呼ぶことになるか。この時の僕は、まだ知る由もなかった。

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