第22話:【並行】カシミヤの結界と、野生のチキン
土曜日の朝、僕は実家のベッドで目を覚ました。
全館空調により、家中が常に一定の適温に保たれている。
「おいで、カノン」
僕は、世界中の不安を一身に背負ったように震えるカノンを抱き上げた。
そのまま、抱っこで近所の並木道を歩く。
カノンは決して地面に足をつけない。
汚れることのない僕の腕の中で、彼は優雅に外界を眺めている。
(……これだ。このルーティンこそが、僕のセラピーだ)
家に帰ると、母さんが手作りのグラノーラとグリークヨーグルト、そして蜂蜜を用意してくれていた。
さらにはグルテンフリーのパンケーキまで。
父さんと並んでコーヒーを飲みながら、新聞を広げ、時事を語る。
知性だけが漂う至福の時間だ。
午後は、家族で南青山のセレクトショップへ向かった。
扉を開けると店員の洗練された会釈が僕を迎える。
「佐藤様、お帰りなさいませ」
僕はロンドンから届いたばかりという極細ウールのコートに袖を通した。
鏡に映るのは、不織布マスクの下で怯えていた男ではない。
知性という鎧を再構築した、本来の僕だ。
(……生き返る。この肌触りが、僕のプライドをクレンジングしていくんだ)
僕は自分自身を完全な形に修復するために、クレジットカードを何度も切った。
一方その頃、鳴凪の隣の市。
佐倉凛の実家。
「……っあー、寝すぎた」
午後二時。
佐倉凛は、爆発した髪の毛を激しく揺らしながらベッドから脱皮した。
眼をこすり、大きな欠伸をする。
「ちくしょー! 朝も昼も食いっぱぐれた!」
「凛、起きたなら太郎を散歩に連れてって! 朝からずっと待ってるわよ!」
リビングの外の窓に目をやると、外から太郎がこっちを見ている。
母親の怒声に背中を押され、彼女は適当に突っ掛けたサンダルで、雑種・太郎を連れて外へ飛び出した。
途中、近所の『フォックスマート』に立ち寄り、もはや何ご飯か分からない食糧を調達する。
「ちょっと太郎、引っ張りすぎ! 私、今チキン食べてるから!」
彼女は太郎に引きずられるようにして、近所の土手を猛進していた。
片手には揚げたてのチキン。
太郎がリードを強く引くたびに、揚げたての衣が彼女の口元で弾ける。
(……あー、これこれ。この脂っこさが私のガソリンだわ)
一方は、洗練されたジャケットの袖を通し、一方は、サンダルで土手を激走しながらチキンを食らう。
二人がそれぞれ、自分にとっての「正解」という名の通常運転を謳歌していた、そんな土曜日の午後だった。
夕方ーー
西麻布、隠れ家イタリアン。
冷えたシャンパンが心地よく喉を通り、僕は完璧な「エリートの微笑み」を顔に貼り付けていた。
「いやあ、地方の生活もなかなか人間的でいいものだよ(大嘘)」
僕は、高校からの内部進学組である友人たちを前に、優雅にグラスを傾けた。
「今はね、支店のベテラン……そう、榎木という男がいるんだけど、彼をインフルエンサーとしてプロデュースしつつ、自治体と連携した大規模な地域DXを推進している最中でね。アナログな地方都市をデジタルで再定義しているんだ。正直、やりがいは本部以上かもしれないね(大嘘)」
「へえ、佐藤、面白そうじゃないか!」
「さすが国立組、やることが違うな」
友人たちの羨望の眼差しが、僕の自尊心に極上の栄養を与えていく。
実際には「おじさん構文」を添削し、『凛ちゃんさん』と媚びを売っているだけなのだが、西麻布の照明の下では、それは「壮大な地方創生プロジェクト」へと華麗にコンバージョンされていた。
(……そうだ。僕は選ばれし者なんだ。鳴凪なんて、僕の手のひらの上で転がしているに過ぎない)
僕は、カシミヤの感触を確かめながら、二杯目のシャンパンを注文した。
一方その頃、佐倉家のリビング。
「……チキンでお腹膨れたところに、すぐ晩飯か……」
凛は食卓に並んだ山盛りの煮物を前に、自分の胃袋のキャパシティ(供給能力)を再計算していた。
ついさっき土手でチキンを完食したばかりだが、佐倉家の家訓に「残食」の二字はない。
「凛、あんた明日、蓮を迎えに行ってあげてよ。空港に夕方着くから」
母親がテレビを見ながら、思い出したように言った。
中学三年生の歳の離れた弟・蓮は、今、修学旅行の真っ最中だ。
「えー、蓮? 了解、了解。迎えに行けばいいんでしょ。拝承ー」
「んもう!その『はいしょう』ってやめてよ。耳障りだわ」
凛はテレビのバラエティ番組に突っ込みを入れながら、無造作に箸を動かす。
その横では、父親が競馬新聞を広げ、赤ペンを耳に挟んだまま「明日のメインレースの配当」を論理的に(勘で)導き出していた。
「蓮、お土産に何買ってくるかな。……あ、お母さん、この煮物おいしい。追い煮物していいですか?」
「食べれるなら食べなさい」
港区で「地域DXの軍師」を気取っている男のことなど、今の凛の脳内メモリには1bitも残っていない。
彼女の関心は今、明日の弟の迎えと、目の前の煮物の分配率、そして競馬新聞を読む父親の背中に集中していた。
平和で、騒がしくて、どこまでも「通常運転」な佐倉家の夜。
その「通常」が、翌日の空港で佐藤の「虚構」を粉砕することになるとは、二人ともまだ知る由もなかった。




