第17話:【拒絶】凛ちゃんアレルギーと、死への出社
目を瞑ると、闇の向こうから彼女の声が聞こえてくる。
『凛ちゃん、ごめんなさい、は?』
『サラダ王子の佐藤です!って言ってくださいね』
「……くっ、寝かせろ……」
寝返りを打っても、高級羽毛布団の感触すら「シュレッダーの残骸」のように思えてくる。
朝。
アラームの音が、有罪判決のブザーのように響いた。
「……駄目だ。仕事、行きたくない」
人生で初めての感情だ。
大規模のプロジェクトの締切日だって、常に
自分が効率化という正義で世界を導いてきたはずだった
それがどうだ。
今は、鳴凪支店の二階フロアにある「あの席」に座ることを、本能が拒否している。
(((……凛ちゃんアレルギー)))
脳内で、新しい疾患名が爆誕した。
自律神経とプライドを直接破壊する新型のアレルギーだ。
(本当に……行きたくない。でも行かないと、僕の居ない間の何が起きるか……その恐怖の方が、今は出社の苦痛を上回っている……)
自らの意思というより、得体の知れない強迫観念に突き動かされるように身支度を終える。
車を走らせ、途中のコンビニに立ち寄って買ったどこにでもある、白い不織布マスク。
それを深く、目元ギリギリまで引き上げて、僕は鳴凪支店の扉を開けた。
これが今の僕にできる、精一杯の防御だ。
「あ、佐藤先輩おはよーございまーす! あれ、風邪ですか?」
この『凛ちゃん』は、心配などしてない。
移さないでくださいよー?という視線で見てくる。
「大丈夫です……。ちょっとアレルギーのようで…。」
聞きたくない声が、マスクの隙間をすり抜けてダイレクトに鼓膜を揺らす。
僕は無言で、死地へ赴く兵士のような足取りで自分の席へと向かった。
だが、誤算だった。
凛ちゃんはそれ以上に何も言ってこない。
ただ無心で、淡々とPCのキーボードを叩いている。
(……こわい)
静寂が、逆に僕の「凛ちゃんアレルギー」を悪化させる。
そして視線の先には、あの「ノート」。
僕とのツーショット写真を表紙にして置かれた、呪いのノートだ。
(せめて裏返して、裏面のこけし集団にしてくれ)
そんな僕の地獄のような心境とは裏腹に、隣の榎木は完全なる通常営業だった。
彼は日課であるニュース掲示板をのんびりと読み耽り、ちょうど巡回にきたレディから購入したばかりの乳酸菌飲料とヨーグルトを、デスクで悠然と食べ始めた。
彼は今、腸内環境を整えることに全神経を注いでいる。
この後はキッチリと一時間、トレイに籠もるのだ。
この温度差は何だ。
ここには、僕と凛ちゃんが繰り広げる(一方的な)死闘を感知する人間はいないのか。
榎木は満足げに空き容器を片付けると、次は当然のようにトイレへ向かう。
榎木の午前の業務はこれでほぼ終了だ。
二人きりになる。
気になって仕事にならない。
僕はさりげなさを装い、横目で彼女の画面を盗み見た。
Adobeのプレミアプロにアフターエフェクト……。
そこには、昨今のクリエイター界隈でも使いこなせる人間が限られる、Adobeのプロ用ソフトが整然と並んでいた。
今は生成AIのコンソール画面を開いている。
凛ちゃんは、プロ仕様のソフトを、呼吸するように使いこなしている。
なぜこれほどのスキルがありながら、この斜陽産業の末端支店にいるのか。
確実に就職先を間違っている。
「佐藤先輩!」
突如、沈黙を破って凛ちゃんが弾けた。
「ひっ……! な、ななな……なんでございましょうっ」
情けないほど裏返った声で、変な敬語が飛び出る。
「みてください! うちの会社のキャラを生成AIで動かしました! 可愛くないですか?」
差し出された画面では、ゆるキャラが不気味なほど滑らかにダンスを踊っていた。
変な才能がありすぎる。
……待てよ。
AIで、動画を、自由自在に?
(((……新手の脅しか)))
これほどの技術があれば、僕が『サラダ王子の佐藤です!』と全裸で踊り狂うフェイク動画など、凛ちゃんには朝飯前ではないか。
アナログな「ノート」に加え、デジタルな「抹殺兵器」まで手にしていると言いたいのか?
「ど、どうしました? 佐藤先輩、マスクが激しくペコペコしてますよ?」
無邪気に覗き込んでくるデジタル処刑場の執行官、凛ちゃん。
「そ、その……動画の出来は、悪くないです。……効率的だね……流石です、最高です。感服しました。凛ちゃんさん」
絞り出した最大限の忖度をつづる声は、マスクに遮られて自分でも聞き取れないほど情けなかった。
「……え、佐藤先輩? いま『凛ちゃんさん』って言いました?」
凛ちゃんが僕を凝視する。
その瞳は、新種の珍獣を見つけた時のように、爛々と輝き始めていた。
(((……しまった!二重敬称だ!間違えた……)))
この「凛ちゃんさん」という呼び方の方が、彼女の好奇心を強く刺激してしまったことに、僕は遅まきながら気づいた。
「もう一回言ってください!『 凛ちゃんさん』って! あ、動画の素材にしたいから、マスク外して言ってもらえます?」
死ぬ。
このままでは、僕の『凛ちゃんさん』というボイスデータが、あの不気味なダンス動画のBGMにされてしまう……!
「ご、午後からの会議の準備があるんだ! 失礼するでござる!」
僕は支離滅裂な言い訳を口にしながら、椅子を蹴る勢いで席を立つ。
逃げ込んだ会議室で、震える指を操作して週末の東京行きの往復チケットを購入した。
当日間近の予約で価格は跳ね上がっていたが、そんな端金を惜しんでいる余裕はない。
とにかく一度、この「凛ちゃん」という毒素が充満したアウェイの地から去りたかった。
効率化という正義も論理も通用しない鳴凪を抜け出し、かつて僕が僕らしく息をしていた、あの孤独で洗練されたマイノリティの地――東京へ、一刻も早く帰りたい一心だった。




