第16話:【崩壊】シュレッダーの音は雨に似ている
営業部たちは午後の外回りに出ており、榎木もトイレへ直行した二階フロアは、二人きりで静まり返っていた。
佐藤は上着を脱ぐよりも早く、凛のデスクから例の「名刺」を無言で回収した。
「あ、佐藤先輩、それ……」
「……佐倉さん。これは、産業廃棄物です」
佐藤の指先が、凛の名刺の角を冷たく弾く。
彼は迷いなく、それらをシュレッダーの投入口に流し込んだ。
ガガガガ、と無機質な断裁音がフロアに響く。
入社して初めて貰った名刺。
凛が二年間、泥臭い現場でおじさんたちと必死に戦い、今の居場所を作ってきた「佐倉凛」の証明書。それが一瞬で、ただの白い細片に成り果てていく。
「……あ」
凛の目から、不意に一粒の涙がこぼれ落ちた。
悲しいというより、自分のこれまでの「現場での日々」そのものが、本部のロジックによって「なかったこと」にされたような、空虚な痛みだった。
「……ただの紙じゃなかったのにな」
凛の声が震える。
その瞬間、佐藤の思考がフリーズした。
シュレッダーで粉砕したのは、凛の二年間という時間であり、それを無残にもゴミに変えたのだと、その涙が彼に突きつけていた。
(((待て。違うんだ。僕はただ、もう存在しない会社の名刺を配るのはどうかと思って……!!)))
佐藤の額から冷や汗が噴き出す。
「……あ、いや、佐倉さん。あの、ですね……。…………すいませんでした」
佐藤は絞り出すような声で謝罪した。
今の彼はエリートではなく、ただのパニックに陥った20代の若手社員だった。
「……今日中に、僕が自腹で……いや、特急で、最高級の紙質で名刺を刷らせます。だから、その……泣かないでください……っ」
佐藤は逃げるように給湯室へ駆け込むと、震える手でコーヒーメーカーのボタンを連打した。
(((終わった。僕のキャリアはここで終わりだ。『関係会社の子を泣かせて逃げた男』として一生語り継がれる……!!)))
顔を水で洗い、必死に取り繕おうとするが、鏡の中の自分は情けないほど強張っている。
そこへ、背後から音もなく「影」が忍び寄った。
「……佐藤先輩。コーヒー、いい匂いですね」
佐藤が飛び上がって振り返ると、そこにはさっきまで泣いていたはずの凛が立っていた。
目は少し赤い。
しかし、その瞳の奥には、かつて見たことがないほど「殺意」が宿っていた。
「……佐倉さん。あの、名刺の件は本当に、その……」
「先輩。先週のeラーニング、第4章『職場におけるパワーハラスメントの定義と事例』。……覚えていらっしゃいますか?」
凛の手には、合格するまで何度もやり直させられた、あの忌まわしきテストの「満点」のスコア画面が光っていた。
「『業務上の必要性を超え、労働者の精神的・身体的苦痛を与える行為』。先輩は私の大切な物品を、私の同意なく『産業廃棄物』と断定し、物理的に裁断しました。これ、判例によれば……立派な『個の侵害』ですよね?」
「…………っ!」
(インコンプライアンス!!)
この絶望的な状況で、榎木のふざけたセリフが佐藤の脳裏にリフレインする。
「先輩、私がこれを……本部のコンプライアンス窓口に、この『泣きはらした自撮り』と、シュレッダーに残った『名刺の残骸』を添えて送信したら。……どうなるんでしょうかね? 」
凛は、佐藤が淹れたばかりのエスプレッソを奪い取ると、それを一口飲み、ニッコリと微笑んだ。
その笑顔は、ついさっきまで「ずっと僕のターンだ!」と、佐藤が浮かべていた「死神の微笑み」の完全な模倣だった。
「……何を、望んでいるんですか」
「決まってます。……次の『インフルエンサー企画』、先輩も道連れ(共犯)になってもらいます!書き出しは毎回『サラダ王子の佐藤です!』です。あ!あと、名刺は最高に可愛いデザインで発注してくださいね?」
「い、いや、それはテンプレートってのがあって無理です」
正論を返してしまい、給湯室に気まずい沈黙が流れる。
佐藤は震える手で、今度は自分用ではなく「凛のための」新しい一杯を淹れた。
砂糖とミルクをこれでもかと入れた、甘いカフェオレだ。
「……佐倉さん。……これ、砂糖とミルク、多めに入れておきました」
「…………」
「……分かっています。……僕がシュレッダーにかけたのは、ただの紙ではなく、あなたの『二年間』でした。……本当に、すまないことをしたと思っています」
佐藤が真剣に深々と頭を下げた。
その姿に、凛は少しだけ毒気が抜けたのを感じた。
「示談にしましょう」
「……条件は。金銭的補償ですか? それとも本部のデザイン規定の修正ですか?」
佐藤がビジネスライクに問い返すが、凛はカフェオレのカップを弄びながら、いたずらっぽく目を細めた。
「もっと簡単ですよ、先輩。……今ここで、私の目を見て言ってください」
「……何を?」
「『凛ちゃん、ごめんなさい』って」
給湯室の空気が、ピキリと凍りついた。
「……は?」
「聞こえませんでした? 『凛ちゃん、ごめんなさい』です。」
「……っ。……佐倉さん、それは、流石に……」
(な、何を言ってるんだ!余計に事態がややこしくなる!)
「早く言ってみてください」
佐藤は絶望的な表情で、凛の赤い目を見つめた。
「り……凛ちゃん! ごめんなさい!! 本当に、僕が悪かった!!」
給湯室に、佐藤の悲痛な叫びが響き渡った。
その、直後だった。
ガチャッ。
「え?」
絶妙すぎるタイミングで給湯室のドアが開き、コップを手にした高橋が固まった。
「…………え、なに。……え? 今、なんて?」
佐藤、フリーズ。
叫んだポーズのまま、指先まで硬直している。
対照的に、凛は勝ち誇った顔のまま、悠然とカフェオレを一口すすった。
「……え、ちょっと待って。やっぱり、お前ら付き合ってたの?」
高橋の目が、驚きと「とんでもないネタを掴んだ」という好奇心で爛々と輝き始める。
「「違います!!!」」
重なる二人の声。
「違うって……。でも今、佐藤、思いっきり“凛ちゃん”って愛を叫んでたよね? 謝ってたよね? 浮気かなんか?」
「……っ! 違、これは、その…示談で……!」
「じ、示談……!? お前、佐倉さんに何したんだよ!? 慰謝料とか発生するレベルの修羅場なの!?」
高橋の顔が、恐怖と興奮で引きつる。
佐藤は、自分の放った「示談」という言葉が、この支店で明日からどう解釈されるかを悟り、その場に膝から崩れ落ちそうになった。
(((……終わった。キャリアだけじゃなく、人間として、終わった……)))
凛が、動揺する高橋の横をすり抜けざまに、佐藤だけに聞こえる小声で囁いた。
「(……ちゃんと、フロアでも言ってくださいね。凛・ちゃ・ん、って)」
(((あ、悪魔か!この女!!)))
佐藤は震える手で流し台を掴んだ。
ここに来た時は、自分が彼女を「変える」側だと思っていたのに。
(((……立場が、完全に逆転した)))
人生とはずっと自分のターンは続かないのである。




