呼ばれた家-間宮響子-
電話がけたたましく鳴ったのは、深夜の午前二時を少し過ぎた頃だった。
間宮響子は、その瞬間に目を覚ました。
呼び出し音より先に――何かが自分の名前を呼んだ気がしたからだ。
「はい……間宮です」
スマホの向こうで、男が必死に抑え込むように息を整える音がした。
「す、すみません……こんな時間に……」
声は掠れている。
恐怖というより、長く恐怖に晒され続けた疲弊しきった人間の声だった。
男は縋るように言った。
郊外に中古の一戸建てを購入したこと。
入居初日から、毎晩“誰か”が現れること。
姿は一定せず、老人、子供、女、影。
だが、共通しているのは――必ず二階の奥の部屋から出てくるという点だった。
「見間違いじゃありません。録画もあります。……でも、録画には映らないんです」
間宮は、そこで初めて言った。
「……その家、“呼んで”いますね」
男は沈黙した。
「今も、二階にいます」
男は震えながら言った。
「来てください……お願いします……」
通話が切れた瞬間、間宮の背後で、仏壇の鈴がひとりでに鳴った。
彼女は静かに目を閉じ、呟いた。
「これは……久しぶりに、厄介なのに当たったわね……」
家は、外観だけならごく普通だった。
白い外壁、低い塀、庭の枯れかけたモミの木。
クリスマスシーズンらしく、近隣の家々はイルミネーションに包まれている。
だが、その家だけが――闇を拒まない。
玄関に立った瞬間、間宮は理解した。
ここは“棲み処”ではない。
強いて言うならば――“口”だ。
男――依頼人の佐久間は、青白い顔で出迎えた。
「……二階です」
そう言って、視線を向ける。
家の中央に位置する十三階段の上は暗い。
電気は点いているはずなのに、光が届いていない。
間宮は数珠を握り、ゆっくりと階段を上がった。
二階の廊下は、不自然なほどに異様に長かった。
現実の構造を無視した距離。
歩くほどに、過去の記憶が擦れるような異質な感覚がある。
奥の部屋の前で、彼女は立ち止まった。
中から――息遣いがする。
「……出てきなさい」
そう告げた瞬間、部屋の中から“それ”は現れた。
人の形をしていた。
だが、顔が――多すぎる。
老人の顔、女の顔、泣き叫ぶ子供、歪んだ男。
それらが、一つの首に重なっている。
そして、すべての口が同時に笑った。
「やっと……来た……」
間宮は一歩も退かなかった。
「あなたは、この家の地縛霊じゃない」
「もっと古い。……もっと、悪い」
“それ”は、ゆっくりと首を傾けた。
「わたしはね……“住んだ者”じゃない」
悲鳴に似た甲高い声が、鋭く空間を裂く。
「選ばれた者だ」
間宮の脳裏に、走馬灯のように映像が流れ込んだ。
――この土地で、かつて行われた儀式。
――家を建てる前に、“誰か”を生きたまま閉じ込めたこと。
――恐怖と絶望が、供物として捧げられたこと。
「……あなたは、まだ“続けている”」
間宮が言うと、悪霊は歓喜に満ちた声で応えた。
「ええ。家を買う者。住もうとする者。“恐れる者”。それが、わたしの餌」
突然、背後で悲鳴が上がった。
佐久間だった。
彼の足元から、無数の黒い手が伸びて、床に引きずり込もうとしている。
間宮は叫んだ。
「目を閉じて!何があっても、声を出さないで!」
だが佐久間は――悪霊の“顔”を見てしまった。
次の瞬間、彼の口から、別の声が漏れた。
「……間宮……さん……」
それは、間宮がかつて救えなかった少女の声だった。
彼女の膝が、わずかに揺れた。
悪霊が嗤う。
「ほら……あなたにも、弱点がある」
間宮は、震える手で数珠を引き千切った。
「……そうね」
そして、静かに言った。
「だから、私は――人間のまま、ここに立っている」
彼女は、自分自身の恐怖を、その場に解き放った。
後悔、罪悪感、救えなかった命。
それらを“餌”として差し出す代わりに――悪霊を、この場に縫い止めた。
家全体が悲鳴を上げる。
壁に無数の顔が浮かび、床が血のように脈打つ。
そして――。
静寂。
朝、警察が駆けつけた時、家は空っぽだった。
佐久間の姿は、どこにもない。
ただ、二階の奥の部屋の床に、一組の足跡が残っていた。
それは、間宮響子のものではなかった。
数日後、間宮のもとに、一本の留守電が届く。
《……引っ越しました……でも、毎晩……二階から……》
録音の最後に、複数の声が重なって囁いた。
「――まだ、終わっていない」
その夜、間宮は初めて、自分の家の二階の廊下に、足音を聞いた。
――(完)――




