散逸した喜劇の第二巻
おもしろうてやがて悲しき鵜舟かな
松尾芭蕉という俳人の一句だそうだ。
アリストテレスという彼より2078年前に産まれたギリシャの人が創作物を作る技術についてという文を書いている。ある人物にそれを勧められて調べたら近くの市立図書館で世界の名著という全集みたいなやつの中にあるらしい。Wikiで見ると『詩学』は26章もあるというが、果たしてそんな中に入り切るものだろうか。
目次で見ると11章から16章あたりは参考になりそうだ。そこでざっくり予習をしたらアリストテレスの師匠がプラトンという人で、彼は詩なんてものはくだらねえと否定していたがアリストテレスは肯定的だったとか。論文に対して小説は下らねえみたいな、純文に対してラノベは下らないと言うのと大体構図は同じだ、権威どうこうレベルの話だが。
悲劇について書かれた第一巻は残っている。
だが喜劇について書かれた第二巻が現存しないという。
喜劇はより取り扱いが難しい。真面目にギャグや漫才コントの根太を論じたところですぐに風化するし、時代が変われば飽きられるどころか不謹慎の誹りを受けかねない。古くはベニスの商人、最近ではエディーマーフィーの物真似で黒塗りした芸能人。
悲劇であれば万人に共通するものが多い。つまり痛みや苦しみ、喪失は人類共通のものだ。
同情を誘うにはそれで充分だ。
ガンになりました鬱になりました事故で半身を失いました髪を無くしました。
それを詩歌、文章や映画にするためにはより多く同情を集めればいい。
共感を根底にしたコミニュケーションは幼いと言ったのは誰だったか、検索しても出てきてくれない。
第一巻、悲劇の在り方を解説した方を抜粋すると大まかに、
筋(希: μῦθος, ミュートス、英: plot, プロット)
人物(希: ἦθος, エートス、英: charactor, キャラクター)
思想(希: διάνοια, ディアノイア、英: thought, theme, テーマ)
語法(希: λέξις, レクシス、英: diction)
旋律(希: μέλος, メロス、英: melody, メロディ)
視覚的装飾(希: ὄψις, オプシス、英: spectacle, スペクタクル)
その他、主要な要素として、
模倣・再現(希: μίμησις, ミメーシス)
精神の浄化(希: κάθαρσις, カタルシス)
急転・どんでん返し(希: περιπέτεια, ペリペテイア)
認知・発見(希: ἀναγνώρισις, アナグノーリシス)
錯誤(希: ἁμαρτία, ハマルティア)
と書かれているそうだ、Wikiのコピーだ。
少し考えれば、喜劇にするには視点を変えるだけではないか、つまり無駄だから散佚したんだとも推察出来る。
錯誤はたとえば誤解によるすれ違いで恨んで誰かを傷付け傷付き、みたいなものだとする。
じゃあハダカデバネズミが大真面目な顔でそれをやっていたら?
美男美女がするのと同じ事をそうでない方々がするのは滑稽に写る。シェイクスピア作の何か最近いやな誤解されそうなタイトルの喜劇でもそうだった。
認知、発見は人間の真理みたいなものを見つけ出す。イグノーベル賞はそれを笑う。真剣にやる程滑稽な目的。
どんでん返しなど喜劇の最たるもの故に特筆しない。
笑うことによって精神の浄化は当然なされる。──方向性は違うにしろ。
模倣は物真似が本人に似れば似るほど芸術的に、笑えなくなって行くみたいな対比で理解できませんかね。
つまり表裏で、対象に距離を置くか同化するかの違いでしかない。
抗癌剤で頭髪を失ってしまった人は悲劇だが事情を知らない人からすれば物笑いの対象となる、それは先に例を挙げた通り。
視覚的装飾、旋律、語法なんかは古いテクニックの話なので省く。人物、筋なんかも影法師みたいなものなので別にいらないでしょう。
思想。
ここが重要ポイントで、倫理観の内外がようは悲劇と喜劇の差異。
誰にも理解できる苦しみを、自己と同一化して一緒に泣くのか(それでも結局は他者の事情には変わりないのだが)、それとも自己と相対化してその哀れな無様を笑うのか(しかしともすれば自身にも起こりうる恐怖があるからこそ感情が引き起こされるのだが) 。
噛み砕いて言うと、
①かくあるべし、という命題をその喪失の描写などによって補強するのが悲劇
②描写される、かくあるべからざるものの存在によって、命題を拡張しようとするのが喜劇
という分類になる。
さらに求められる反応は①ではそんな事あっちゃいけない!って否認され②ではそんな奴おったんかい!って容認されるところが味噌だ。
今までに一番笑ったのが、古い電視台番組で村上ショージ氏が明石家さんまに「将来の夢は?」と聞かれ少し悩んで「安楽死」と答えたギャグだ。涙が出るほどその表情の真実味や切実さ、存在の情けなさが、滲み出ていてこっちが死にそうなほど笑い転げ、笑って、笑って、最後に、自分もきっとそうなのかなと思った。
ただアートマンとブラフマンの対比みたいな大きな話まで届くのは、悲劇の方がやりやすいかなという気はする、観客が真剣に見てくれる分だけ。
概要だけ見て分かったような気になって偉そうに言っている阿呆の筆者が仮にもなんかの権威なら読んだ誰かは納得するかもしれないし、ゴミカスなろう作家だから嘲笑の対象なのは道理で、それどころか誰も見てさえくれないという愚痴はこの辺にして、今から市立図書館に向かいます。では
追記で、コメディやギャグの賞味期限が短いので非常に不利だという話、詩学の時に面白かったものがいまだに笑えるはずがない。数年で使えなくなって捨てられたのか作者が恥ずかしくなって回収したのか
チャップリンの映画は技法的に素晴らしくても今見た人は笑い転げたりしない、落語の根太は古典ばかりで味わうものに変わっている。
何度聞いても面白いジョークと一度聞いたら二度目はつまらないジョークを選別する趣味を月は無慈悲な夜の女王という古典SFの AIが主人公へ協力する対価としてやっていた。
変化をしない磐長姫、記録されて閉じ込められて永続性を求める姿の象徴が文芸のイコン、ならばそこに喜劇は即しない。向いていないのだ。
喜劇の方向性は文芸ではなく話芸、口承であれば、フィードバックのある他者性、対応性、つまり変化が可能なもので発揮した方が、木花咲耶、咲いて散る二度と見れない瞬間だけを楽しむべきなのかもしれない。




