夏篇:ラムネの音が止まるとき
懐かしい音を聞いた瞬間、世界が“ほどけた”。
十年前の夏、まだ誰かをまっすぐ好きになれた頃。
その時間の向こうで、俺はもう一度、彼女に出会う。
──あの日消えた涙目の彼女を、まだ好きでいいですか?
【夏篇】ラムネの音が止まるとき。
青春×タイムリープ×ノスタルジー。
“懐かしさ”が鍵になる、切ない恋の物語です。
あの日から、三日が経った。
だけど、胸の中のざらつきは消えなかった。
机の上には、あの《モンスタークロニクル》のカード。
紗夜の文字が書かれた一枚を、何度も見返しては机の引き出しにしまう。
――まるで、触れたら壊れてしまいそうで。
夢じゃない。
あの夏の熱も、風の匂いも、そして彼女の笑い声も、確かに覚えている。
ただ、証拠はこの一枚しかない。
その“現実味のなさ”が、逆に息苦しかった。
⸻
放課後。
蝉が鳴き止まない。
気づけば、夕陽が校舎の影を長く引き伸ばしていた。
「おい朝日、帰るぞ!」
颯太の声に振り返る。
いつもと変わらない笑顔。けれど、その“いつも通り”が少し遠く感じる。
「ごめん、先帰ってて。ちょっと寄り道したい」
「おー? 珍しいな。恋でも始めたか?」
「うるせぇ」
軽口を返して笑ってみる。
でも、その笑い方が嘘くさいのは自分でも分かっていた。
⸻
駅前の道を歩く。
三日前と同じ夕暮れ。
けど、もうどこにもあの夏の気配はない。
……本当に、あれは夢だったのか?
歩きながら、自分のポケットに手を突っ込む。
指先が、硬いガラス瓶に触れた。
ラムネ。
買うつもりなんてなかったのに、気づけば握っていた。
フリーマーケットの屋台で買ったものだ。
――「夏といえばラムネだろ」と笑うおじさんの声。
不意に、三日前の風鈴の音が蘇る。
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
それが“懐かしさ”という感情だと気づいた瞬間――
「ぱんっ」
軽い音が響いた。
瓶の中のビー玉が転がり、炭酸が喉奥で弾ける。
世界が、静かに――ほどけた。
⸻
「……あれ?」
目を開けた瞬間、風景が違っていた。
目の前には、懐かしい木造の校舎。
西陽がガラス窓に反射して、教室の中を金色に染めていた。
“この光景、見覚えがある。”
窓の外から蝉の声。
机の並び、古い黒板。
すべてが10年前のままだった。
「……戻ってきたのか」
息を飲む。
机の上に置かれた、見慣れないノート。
表紙には、丁寧な筆記体でこう書かれていた。
《如月紗夜》
心臓が跳ねた。
手が勝手に伸びる。
触れた瞬間、指先が震えた。
「やっぱり、君……」
「――また会ったね」
振り返ると、そこに彼女がいた。
窓際の逆光の中、長い黒髪が光を透かしていた。
その笑顔が、三日前とまるで変わらない。
「……覚えてるのか?」
「何を?」
いたずらっぽく首を傾げる。
けれどその目の奥には、微かな戸惑いがあった。
――きっと、どこかで感じてる。
この感覚の“既視感”を。
「君、また迷子?」
「……そうかもな」
そう言うと、彼女は小さく笑った。
机に肘をついて、頬杖をつく仕草。
指先でラムネ瓶を転がしながら、遠くの空を見た。
「この時間、誰もいないんだよ。みんな部活か帰宅中」
「君は?」
「私は……居残り。ちょっと、逃げてきた」
言葉の最後が、風に消える。
「逃げてきた?」
「うん。夏祭りの準備委員なんだけど、面倒になってさ」
「真面目そうに見えるけどな」
「見た目だけ。……あなたも、そうでしょ?」
「俺が?」
「うん。なんか、嘘ついてる顔してる」
その言葉に、息が止まる。
ほんの三日前、同じようなことを彼女に言われた気がする。
まるで、時間の方が俺を覚えているみたいだった。
⸻
「ねえ、今日、夏祭り来る?」
突然、紗夜が言った。
「え?」
「夜、神社で。屋台とか出るやつ。……多分、花火も上がる」
「いや、知らないし」
「じゃあ来ればいいじゃん」
そう言って、彼女は立ち上がった。
セーラー服の裾が風に揺れて、日差しの中に消えそうなほど眩しい。
「ラムネ、持ってきてね」
「なんで?」
「好きなんだ。あの音。夏が閉じ込められてるみたいで」
その言葉が、胸に残った。
⸻
夜。
神社の参道は、屋台の灯りで染まっていた。
金魚すくい、たこ焼き、わたあめ。
人の笑い声と浴衣の裾が、夏の夜を飾る。
「……本当に来たんだ」
背後から声。
振り向くと、紗夜がいた。
浴衣姿。
髪は短くまとめられて、うなじが白い。
提灯の明かりに照らされた横顔が、息をのむほど綺麗だった。
「似合ってる」
「ありがと。……ラムネ、持ってきた?」
「もちろん」
瓶を渡すと、彼女は嬉しそうに笑った。
ビー玉を押し込み、“ぱんっ”と音を立てる。
「……ね、いい音でしょ?」
「うん」
「昔から好きなんだ。お祭りの夜に飲むラムネ。
時間が止まる気がするの。泡が弾けて、光が瞬く感じ」
彼女の瞳に映る光が、花火のようだった。
「……紗夜」
「ん?」
「もし、また君に会えなくなったら、俺、どうすればいい?」
紗夜は少し黙って、それからラムネの瓶を揺らした。
中のビー玉が、かすかに光る。
「また会えるよ。……懐かしくなったら、きっとね」
その瞬間、夜空に花火が上がった。
光が弾けて、風が止む。
音が、遠ざかっていく。
次の瞬間――世界がほどけた。
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「……っ!」
目を開けると、見慣れた駅前。
ラムネの瓶を握りしめたまま、立ち尽くしていた。
花火の音も、紗夜の笑い声も、もうどこにもない。
けれど――
指先に残る冷たさと、胸の奥の熱だけは確かだった。
「……また、会えるよな」
瓶の中のビー玉が、光に反射して微かに揺れた。
まるで、彼女が“うなずいた”みたいに。
⸻
――懐かしさは、時間を越える。
あの夏の夜、彼女がそう教えてくれた。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
この【夏篇】では、朝日と紗夜の「最初の再会」を描きました。
十年前の時間に迷い込んだ彼が、たった一人の少女と出会う――。
それは、偶然じゃなくて“記憶”が導いた奇跡かもしれません。
次回、【秋篇】「団子とハロウィンの夜に」では、
再び“懐かしさ”が時間をほどいていきます。
少しずつ、二人の過去と現在が繋がっていく予感をお楽しみに。
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