表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

生きることについての掌編集

笑い方

掲載日:2025/10/05


「本当にユウミの笑い方にそっくりだよ」


幼馴染のマサヒロがそう俺に言った。久しぶりに会ったマサヒロは俺がユウミと別れた事を知って驚き、何があったのか詳しく聞き出そうと俺を飲みに誘ったのだった。安居酒屋の喧騒の中、放たれたこの言葉は俺の心をえぐった。とても残酷に。彼は何気なく言ったつもりだったが、言った瞬間デリカシーの無い発言を恥じ表情を曇らせた。中高は野球部で大学ではテニスをし、現在はトライアスロンするような根っからのスポーツマンにデリカシーを求めてはいけない。俺は動揺してない振りをするのに精一杯で、マサヒロと同様、言った瞬間後悔する返しをしてしまった…。


「やめろよ。酒が不味くなる」


…。ユウミとは3年同棲していた。十分長い期間だ。笑い方が似てもおかしくない。でも、別れたのは二年半前なんだぜ?俺はこの二年半ずっとユウミの笑い方をしていたなんて。嘘だろ?なんで、アキヒロやタカシは指摘してくれなかったんだ?くそ、アイツらは知ってて黙っていたんだ。俺を憐れみながら。


…いや、アイツらは悪くない。俺が馬鹿なだけだ。気付かない俺がアホで間抜けなだけさ。


「気を悪くさせてごめん」


マサヒロは叱られた子供の様に謝った。程よく焼けた肌としっかりとした体格の彼がこんな風になるとたいていの女はキュンと来るのだという。たしかユウミもこんなマサヒロを見て、かわいいと感想を俺に語ったことがあった。


「いや、いいんだ。俺が間違っている。もともとそういう話をするために飲みに来てるんじゃんか」


何でいつもこう俺はあべこべな状況に陥るのだろうか?


そうなんだ。ユウミと別れたことなんて、とうの昔に心の整理はついて解決済みの問題だった。そう解決済みのはずだった。だからショックだった。


『本当にユウミの笑い方にそっくりだよ』


マサヒロの声がこだまする。二年半前。俺は失恋し、ポッカリ空いた空白の心を埋めようとネットで色々調べて試していた。でもそれらはどれも役に立たなかった。新しい恋をすれば良いと言われるが、他の女とデートしても隣にユウミじゃない女がいるという違和感が常にあったし、風俗に行ってもユウミとの差異にばかり思考が働き、勃たないで風俗穣を困らせもした。結局は時間が解決した。二年半という時間が。だから、マサヒロと久しぶりに会った時、俺は自信をもって失恋話をしようと思ったし、少しは感傷に浸るような事はあるだろうが、あの頃のような感情に戻ることはないと思っていたんだ。なのに。それはないよ。


『ユウミの笑い方にそっくりだよ』


だと?


ボクサーが死角からアゴにフックをもらったかのように、俺は打ちのめされた。時間が解決したはずだったのに、時間が遅効性の毒だった。ユウミと出会う前の俺はどんな笑い方をしていたのか?思い出そうとしたが、思い出せない。


「なぁマサヒロ、俺って昔どんな笑い方してた?」

「さぁ…」


俺はグラスに半分以上あったハイボールを一気に飲み干した。マサヒロのほうを見ると彼もグラスが空になりそうだったので店員を呼び、それぞれの酒を注文した。


冷めはじめたホッケの塩焼きをつつきながら、俺は語ることにした。


「だらだらと同棲し続けたのがいけなかった。」


「どんくらいしてたの?」


「3年」


「長い方だけど、長すぎってわけでもないよな」


「…」


「…結婚は考えてたのか?」


「考えてなきゃ、同棲しないよ。でも、いつの間にか考えなくなってた…最初は毎日考えてた。それが週一になり、月一になって…」


「あーね。ユウミは自分から言うタイプじゃないから、見切りをつけたんだな。」


「そういうこと。俺はユウミの事をよく知っていると思っていたし、ユウミも俺をよく知っていると、そう思い込んでた。でも違った。」


たしか、ユウミが別れることを話すひと月ぐらい前だった。夕食を食べ、俺はその日当番だった食器洗いを終えユウミのいるソファに戻ろうと背もたれからつきだした彼女の後頭部を見たときだった。なんだか遠く感じた。俺はその事を軽視した。彼女のとなりに座り、いつものように世間話をし、いつも通りの彼女のリアクションに安心しきっていた。あの時だろう。ユウミが俺を諦めたのは。そういえば、ユウミは俺がとなりに来た時、Tシャツに洗剤の泡がついているのを見つけ、テーブルのティシュで拭いてくれた。俺は面倒くさがってエプロンを着けないでいるのをよく彼女に注意されていた。もちろん、こんなことが別れの原因ではない。でも、思い出してしまう。そして、やるせない気持ちになる。


「復縁は可能かな?」


俺はマサヒロに訊いた。

マサヒロは呆れた様子で小さく笑った。

久しぶりに会った彼にこんなことを訊くのは間違っているのは分かっているが、俺の心の弱さがそう言わせた。

マサヒロは優しい男だった。


「おまえ次第だと思うよ」


確かにそうだ。


「ユウミに今男がいなければ…だけど」


俺は頷いた。


「エミに訊いておこうか?アイツならユウミの事わかってるだろう」


俺はマサヒロの優しさに癒されながらも、それは断る事にした。今の俺がユウミの前に現れても、未練たらしい男が立っているように彼女の目に映るだろうし、俺自身そう感じ、その場から逃げ出したくなるだろう。


今、俺は変わらなければならない。それも大きく。これまで、ずっと忘れることばっかり考えてきたのは間違っていたんだ。俺自身が変わること。本当にやるべき事はこれだったんだ。ああ、マヌケな俺よ、やっとわかったよ。


「今はいい。ありがとう。例え万が一ユウミとよりを戻せたとしても、同じことを繰り返す」


「そうか」


「今度ユウミと会う時は成長した自分を見せたいんだ。ユウミに男がいる、いないか関係なく」


やっと悟った今の俺は、ユウミが他の男と結婚し、永久に彼女を失うことになったとしても自分はそれを素直に受け入れられる自信が、身体の奥から湧き出していた。


マサヒロは俺の表情を見て、ニッコリと微笑み、提案した。


「トライアスロン、やってみないか?」

「トライアスロン?あれって金かかるんだろ?おまえよく愚痴ってただろ?」

「金がかかるのは自転車だよ。俺のお古を譲るから」


俺は思い出す。初夏の海に黒いウェットスーツに身を包んだ集団がスタートのホーンとともに一斉に駆け出して行くのを。陽光に照らされキラキラと輝く鉛色の静かな海面が選手たちのあげる激しい波しぶきによって侵されてゆく光景を…。その中にマサヒロがいた。彼が参加した大会の応援に俺はユウミと来ていた。


俺はやってみたい気持ちになった。


「俺にもできるだろうか?」


「できるよ。お前小学生の時、犬かき俺より上手かっただろ」


「ははは」


俺は声を出して笑った。マサヒロがあまりにも下手くそな励まし方するから。


「そうそう。それだよ!」


マサヒロは俺の顔を指さして言った。


「は?なんのことだよ?」

「笑い方だよ。お前の昔の笑い方」


どうやら、俺は失恋を乗り越えつつあるようだ。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ