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ピックという名の犬がいた

作者: 小松郭公太

東京オリンピック開催迫る昭和某年、私が小学校に上がる前のことである。我が家に生まれて間もない子犬がやってきた。

 夕方、外は既に暗くなっていた。格子に曇りガラスが入った玄関の引き戸がカラカラと音をたてて来客を知らせた。と、同時に「今晩は」という男の声がして、間もなく玄関の正面にある客間の障子が開いた。

 声の主は、父が以前勤めていた建設会社の社長である。炭坑ズボンに袖無しはんてん。白髪交じりの短髪に口髭を生やし鼈甲メガネをかけている。

 会社名は「大原組」。社長のことは「大原のオドさん」と呼んでいる。オドさんとはお父さんの意である。大原組は、このオドさんが土建業から立ち上げた町有数の建設会社であった。

 そのオドさんの手に一匹の子犬が抱かれていた。

「わあ、かわいい」

と、私と姉二人が駆け寄ると、オドさんは子犬を両手で抱えて長姉の腕の中に下ろした。白い毛並みに少し茶色いブチが混じっている。三人は替わり番こに子犬を抱っこした。抱きかかえるときにひっくり返すとピンク色のお腹がぷっくりと膨らんでいた。オシッコの出る所もピンク色だった。

 この子犬がどこから連れてこられたのかは知らない。ただ、オドさんの家では、数匹の秋田犬を飼っていたので、きっとその子犬はオドさんの家の秋田犬の子どもに違いないと私は思っていた。いずれは大きな秋田犬になる、と信じて疑わなかった。

 いつだったか裏の畑で遊んでいたとき、裏山に沿った緩やかなカーブが続く小道の先から大勢の人がこちらに向かってやって来ることがあった。見ると、大きな灰色の秋田犬を先頭にした男たちの集団がこちらに近づいて来る。秋田犬は、茶色の首輪に赤い綱を付けている。その綱を持って秋田犬の横を歩いているのが私の父だった。作業ズボンに白い肌着。頭に白い手ぬぐいを巻いている。父の後ろにはもう二匹の秋田犬が同じように人を従えて歩いている。「父さん」と声を掛けようとしたが、秋田犬の迫力に気後れして声も出なかった。一方で、大きな犬を連れて先頭になって歩く父の姿を目の当たりにして誇らしく思ったことを覚えている。

 大原組は、小道のカーブを一つ曲がった所にあり、父たちは、そこから犬を連れて、市役所の広場で行われる秋田犬の品評会に向かうところだったのである。大きな体。ピンと立ち上がった三角の耳。くるりと丸まった尻尾。その悠然とした姿に子どもながら惚れ惚れとしたものだ。

 子犬は父にピックと名付けられた。

「もうすぐオリンピックだからピックにしよう」

と父は意外と造作無く決めたように見えた。

そして私は、その命名をためらいなく受け入れていた。しかし、後に誰かが、ピックは英語のpig「豚」に似ていないかと言い出してから、やや複雑な気持ちになった。

「犬なのに豚という名前か……」

当時、(オリンピックはOlympicと書き、picは映画・写真でありpigではない)と正す者はいなかったのだ。

 ピックは家の中でミルクを飲んでどんどん大きくなっていった。白い毛並みにあるブチがはっきりとした茶色になり、ピンクのお腹の膨らみは次第にしぼんでいった。オシッコのとき足を上げていなかったから、たぶん雌だったんだろう。

 大きくなったピックのために、父が作った犬小屋が玄関先に置かれ、ピックは下し立ての茶色い皮の首輪をつけて鎖に繋がれた。銀色に光る新品の鎖は、ピックが動くたびにチャリチャリと音をたてた。

 ピックの尻尾は丸まっていなかった。耳もピンと立っていなかった。ピックは秋田犬ではなく、ただの雑種犬だったのだ。それでも、ピックは、お座りやお手など、人の求めに応じていた。ピックは犬として覚えなければならないこと(?)を一通りマスターできたのだ。幼い私にとっては、秋田犬も雑種犬も犬に変わりなかった。だから、市役所の広場で品評会を初めて見たとき、ピックのことを品評会に出してあげたいと思った。

「ピックも品評会に出してあげようよ」

と父と母に話したら、

「ピックは出れないよ」

と笑っていたが、私は、家の犬は良い犬だと本気で思っていた。

 ピックは、冷やご飯に味噌汁をかけた餌を食べた。使い古しのアルミ鍋に口先を突っ込んでガツガツ食べた。食べて、排泄して、寝て、私の遊び相手になって、と単調な毎日を過ごしていた。ピックにとっては、それが当たり前の生活だったから、不満なことはなかったと思うが、たまに味噌汁かけご飯を残したりすると心配だった。汁は全部飲むのだが、ご飯を残すことがあるのだ。

「何だピック。残したのか」

と言っても、ピックは体を伏せて寝ている。

犬だって毎日同じではないんだな、と子ども心に思ったことを覚えている。

 何故かリードを持ってピックを散歩に連れて行った記憶がない。犬を連れて歩くには、私はあまりにも小さかったのだろう。誰かが持った綱に繋がれたピックと一緒に歩いていたのである。その時、ピックが繋がった綱を持ってみたいという欲求が私にはあった。

 その頃は、今のようにペットである犬を毎日散歩に連れて行くような習慣はなかったのかもしれない。人が連れて歩かなくても、往来を気ままに歩いている犬もいた。農村部では犬を放し飼いしている家も多く、庭先が近所の犬の散歩コースになっていて、子どもたちが自分のおやつを分け与える姿がよく見られた。しかし、家のピックはそれほど自由な環境には置かれておらず、鎖に繋がれていることが多かったように思う。

 人が来ると吠えたのかどうかとか、ピックの性格に関することはよく覚えていない。ただ、どちらかというと落ち着きのない犬だったのではないかと思う。それは、その後印象に残るある出来事があったからだ。


 春先のことだった。シトシトと雨が降っていた。母が近所の店に豆腐を買いに行くところだった。片手に豆腐を入れる鍋を持って、玄関で長靴を履いて、もう片方の手で傘をさして戸口を出た。そのとき、どうしたことか玄関先に繋がれていたピックが母にじゃれついてきた。お腹がすいていたのか。毎日ご飯を作ってくれる母が鍋を持って現れたものだから、鍋に自分に与えられるものが入っていると思って、嬉しくて嬉しくて身体全体でその喜びを表現したのかもしれない。ピックは、鎖に繋がれたまま、くるくると母の足下を回った。それで足に鎖が巻き付けられ、母はバランスを崩して倒れ、戸口の敷居に脛をぶつけてしまった。

 母の声を聞いて、家族全員が玄関に集まった。母は玄関の外で地面に両手をついて尻餅をついていた。私は玄関の上がり口から母の姿を見た。あの時、私は姉たちから、「あんた何で笑ってるの?」と言われた。私は笑っていたのではない。尻餅をついている母を見て、どう対応すればよいのか分からなかったのだ。足が痛くて自力で立ち上がることができない母を直視することが出来なかったのだ。しかし、姉たちの目には、私が笑っているように見えた。

 ピックは、母を転ばした後、どんな顔をしていたのだろう。チャリチャリと鎖の音をたてて落ち着きなく動き回り、クンクンと声にならない声を出して、困ったような顔をして、母のことを心配していたのではないのか。

 母は、父が引くリヤカーで整骨院に運ばれ、脛骨にひびが入っていると診断された。そして、足をギプスで固められて帰宅し、その後、しばらく自宅で療養していた。

 治療のために定期的な通院が必要だった。通院の手段はリヤカーだった。父は仕事があるので、リヤカーは小学四年の長姉が引いた。姉は、学校から帰るとすぐに裏の作業小屋からリヤカーを出して荷台の後部を玄関先に着けた。荷台に座布団を敷くと、母が姉の肩を借りてリヤカーに乗り込む。母が足を伸ばして後ろ向きに座ると、姉はハンドルを握りリヤカーを前に進めた。

 家からバス通りに出て少し行くと、姉が通う小学校のグラウンドがある。そのグラウンドに沿った小道に入り校舎の横を通って整骨院がある通りに出る。家から整骨院までは500メートルほどある。放課後のグラウンドで遊んでいた子どもたちがリヤカーを引く姉を見ていた。道端ですれ違うお年寄りたちは、「えらいねえ」「感心だねえ」と褒めてくれた。姉はそうした視線を恥ずかしいとは思わなかった。むしろ、母の役に立っている自分を誇らしく思った。

 私はその時、五歳だった。地元のお寺が運営する幼稚園に入園し、家の前に止まる幼稚園バスに乗って通園していた。幼い私は、ただただ母の側にいたくて姉が引くリヤカーの後ろに着いて歩いた。記憶の糸を手繰り寄せると、母が治療を受ける整骨院の様子がぼんやりと浮かんでくる。ベットや治療器具がある明るい空間だった。

 梅雨が訪れる頃、母のギプスは取れたが、松葉杖を使った生活はその後も続いた。母に変わって家事をしていた祖母にいつまでも甘えている訳にはいかなかった。立ったり座ったりの動作には時間が掛かるが、軽作業であれば難なくこなした。母の実家の祖母も頻繁に手伝いに来てくれた。姑に気兼ねする母のことが心配だったのだろう。

 ピックの犬小屋は、裏の畑にある薪小屋の前に移された。玄関先にいた時は絶えず人の出入りがあって賑やかがったが、薪小屋はいたって静かな所だった。小屋の横に柿の木があり、目の前に小さな畑がある。そこは少しばかり吠えても動き回っても気にならない自由な空間だった。ところが、その時のピックは以前のような元気をなくしていた。母屋への通路を誰かが通っても関心を示さない。あれほど落ち着きのない犬が今は犬小屋の中で寝ていることが多くなってしまった。時折外に出てきたかと思うと、何かを嘆くかのように「クー」と声を出した。

 朝夕の餌は母が作り私たち姉弟が運んだ。お腹が空いてないのか、餌を持っていっても以前ほどは喜ばなくなった。学校に行く前にランドセルを背負った長姉と次姉が背中を撫でながらピックに話しかける。

「あら、ピック、またご飯残したの? ちゃんと食べないとダメだよ」

と長姉が言うと、続いて次姉が、

「ちゃんと食べないと痩せちゃうよ、ピック」

と言って、二人は駆け出して行った。

 私は、幼稚園バスが来るまでの間、ピックと遊んだ。お座りをさせてからお手をさせる。そして、

「ピックはいいなあ、幼稚園に行かなくてよくて……」

と言うと、ピックはクンクンと鼻を鳴らして私の手を舐めた。

 実はこの頃、私は幼稚園に行きたくないと思い始めていた。昼寝の時間に眠れなくて困った。帰りのバスが遠回りで時間がかかった。帰りの時間前に迎えに来てもらえる子が羨ましかった。等々、行きたくない理由があったが、一番の理由は、同じクラスの中に乱暴な男の子がいることだった。叩かれたとか蹴られたとかの暴力を受けたわけではないが、落ち着きなく動き回り、辺りにちょっかいを出して歩く粗野なところがストレスになっていたのだと思う。

 それから間もなく私は幼稚園に行かなくなった。担任の先生が迎えに来てくれたこともあったが、私は母の背中に隠れて顔を見せようとしなかった。

 夏になった。

 薪小屋の前は、直射日光を受けることが少なく過ごしやすかった。午後からは西日が射すが、そばにある柿の木が日陰を作ってくれた。

 ピックは、この薪小屋が自分の居場所とわきまえたのか、食欲も戻り、のんびりとした犬の暮らしを送っているように見えた。が、柿の木から飛び立つ蝉の羽音に驚いて立ち上がる仕草には、まだ若々しさがあった。

 母の足はだいぶ回復してきてはいたが、まだ片方の腋に松葉杖を挟んで足を引きずって歩いていた。

 そんなある日、母が温泉へ湯治に行くことが決まった。場所は山形県のH温泉。父が付添い、五歳だった私も付いていくことになった。期間は回復具合にもよるが、十日程度を予定していた。


 奥羽本線Y駅二番線ホーム。私は、ホームに近づいてくる機関車を見て後ずさりして父と母の陰に身をひそめた。その真っ黒な鉄の塊が恐かった。機関車が引っ張る茶色い車両の中は全てがボックス席で、木製の椅子がL字型を背中合わせにしたように設えられてあった。ヒョッ、と短めの汽笛を聞くと、車両は、前の方から順番に引っ張られ、ガタン、ガタンと音を繋ぐように動き出す。父と母は窓側の席に向かい合って座り、私は、母の横にぴたりと張り付くようにして座った。

 汽車は、幾つかの街を過ぎ幾つかの駅で止まり、長い時間をかけてS駅まで私たちを運んだ。S駅は何本ものホームを持つ大きな駅だった。父が私の手を引き、母は松葉杖を使ってホームを歩いた。駅舎へ向かう通路に続く階段では、父が松葉杖を預かり母に自分の肩を貸した。

 駅前にはボンネットバスが待っていた。H温泉はまだ先にあるようだった。バスは山道を進み、小さなトンネルをいくつも通った。トンネルを出たかと思うと、今度は眼下に深い渓谷が広がった。バス一台がやっと通れる狭い道で、その下は断崖だ。一つ間違えば谷底に転落しそうだった。バスはその道をゆっくりと慎重に進んで行った。

 H温泉は、賑わいのある大きな温泉街だった。何軒かの温泉宿が軒を連ね、土産屋などの店も立ち並んでいた。

 宿は相部屋だった。先客はご夫婦で、私より年上の女の子と年下の男の子を連れていて、この子どもたちとはすぐに仲良くなった。

しかし、その家族は数日で宿を発ち、次に同部屋となったのは、猟師風の男性三人で、何かと気が使えた。

 宿には三種類の温泉があった。母の湯治に適した泉質だったのだろう。しかし、私にとってはどれも熱すぎて、湯船に浸かることができなかった。

 長い滞在時間の中で、温泉街を歩いた記憶がある。父は仕事の関係で宿を離れていたし、母はまだ自由に歩けなかったから、その記憶は先客の四人家族に連れられて行ったものだと思われる。橋のたもとの土産屋のアイスクリーム。山の上の神社で行われていた奉納子ども相撲。断片的な思い出が私の中に残っている。

 ある日、父が宿に戻ってきた。母と約束した時間が過ぎたのだ。温泉療法の成果が現れたのか、母は松葉杖を使わずに歩くことが出来るようになっていた。勿論、ゆっくりと足を引きずりながらだが、確実に回復していることが分かった。

 私たちは、渓谷の道を渡り、トンネルを抜けて駅に着き、線路の単調な音に揺られて帰路を急いだ。

 汽車がY駅に着いたのは、その日、暗くなってからだった。家は駅から歩いて十分ほどの所だが、父は、母のためにタクシーを奮発した。タクシーが家へ着き、母が車から降りると、玄関の方から駆け寄って来る足跡と、

「かあさーん」

と叫ぶ声が聞こえた。そして、次姉が声を上げて泣きながら母の懐に飛び込んできた。母が、しがみ付いて泣く次姉の頭を撫でていると、そこに長姉も加わり、母は長姉の頭も同じように撫でた。

 タクシーが去り、父は荷物を持ち私を連れて玄関に向かった。母は姉たちの肩を借りて歩いた。玄関の前には祖母が待っていた。

「お祖母ちゃん、長い間ご面倒お掛けしてしまってすみません。ありがとうございました」

と母がお礼を言うと、祖母は、

「ほう、だいぶ良くなったみたいだね」

と気遣ってくれた。しかし、その後祖母は、誰に言うでもなしに、

(母親が帰ってきたとたんに泣き出すんだからねえ。母親がいなくても不自由しないように気を使って面倒みてきたんだけどねえ。まったく割に合わないねえ)

と呟いていたらしい。

 この場面は、大人になってからの姉弟の思い出話としてよく語られる。私がH温泉で母と過ごしていた期間は、姉たちにとっては、母親と離れ、厳格な祖母と過ごした辛い期間だったのである。

 ピックは、その時、犬小屋の中で眠りに就いていた。途中、玄関への通路がヘッドライトで照らされ人の出入りがあることに気付いた。すると、いつもご飯を作ってくれるあの人の匂いがしたので、ピックは思わず犬小屋を飛び出し、「ワン」と声を出した。

 

 十二月になって初雪が降った。落ち葉となった赤い柿の葉を薄っすらと覆った白い雪は美しかった。朝、ピックに行ってみると、めったになく私に向かって二三度吠えた。その声は明るく嬉しそうだった。ピックの目に映る世界も変わったのだ。その後、雪が本格的に降るようになり、ピックの犬小屋は薪小屋の中に移された。

その後、雪はしばらくの間降り続いた。そして雪が止むと、久しぶりの青空となった。朝に目を覚まして外を見ると、木々に雪がかぶさり、家々の屋根は雪でこんもりと丸くなっていた。やがて、父が屋根に上って雪下ろしを始めた。父は、正月が過ぎたら雪のない千葉に出稼ぎに行くことになっていた。姉たちは、雪で「へらかんべ(雪に栃の鞘を混ぜ杓文字を使って粘らせる遊び)」をして遊び、私はストーブに使う十能で父の雪下ろしを真似て遊んだ。ピックは薪小屋の戸口で久しぶりに外の空気を吸った。陽の光が眩しい。ピックは遠くの空に向かって何度か吠えた。

そして春が訪れ、母が足を骨折してから一年が経った。まだ少し足を引きずっていたが、母の足はかなり回復していた。私は、歩いていくことができる距離にあるキリスト教系の幼稚園に編入していた。通園バス、お昼寝、乱暴な男の子などの心配事がなくなり、スッキリとした気持ちで通園することが出来ていた。

編入して間もなく、春の運動会が開かれた。

私は園服に半ズボン、頭に赤いハチマキをしている。プログラムに家族とのダンスがあって、私は母と一緒に踊れるかどうか心配した。母は父に踊ってもらえるようにお願いしていたので、私は父と一緒に踊るものと半ば諦めていた。しかし、子どもたちの輪の中で待っていると、母がほんの少し足を引きずりながら輪の中に入って私の所へ来てくれた。母の足が気になったが、私は母と手を繋いで踊ることができた喜びで一杯だった。

 

 秋になると、母の足はほとんど快復し元通りの生活が出来るようになっていた。そんなある日の午後のこと。裏の薪小屋の方からピックが吠える声が聞こえてきた。少しばかりではない、これまで聞いたことがない、けたたましい吠え方だった。何者かを威嚇するような唸り声も混じって聞こえてくる。

 その異変にいち早く気付いたのが、母屋の外にいた祖母だった。玄関のあたりから裏の薪小屋に向かおうとしたとき、ピックの鳴き声が悲鳴のように聞こえてきた。裏に回ってみて祖母は驚いた。

 ピックは体を震わせて地面に横たわっていた。そして、その横に棒切れを持って仁王立ちになっている上半身裸同然の青年がいた。炭坑ズボンに白い半袖シャツを羽織っている。首に銀色のチェーン、両腕に赤と青の刺青が見える。

 祖母は、その青年が、近所に住む札付きのヤクザ者であることがすぐに分かった。祖母は立ち止まって声を上げた。

「あんた、家の犬に何したの?」

すると、青年は祖母の方に体を向けて棒切れを振り上げた。

「何だと、この婆」

青年は、酒に酔っているようで、顔を赤くしていた。祖母は一歩二歩と後退し、腰砕けになってしまった。青年は興奮していた。

「婆、うるせえんだよ、こいつが」

と横たわるピックの方を見た。そして青年はピックと祖母をそのままにして、母屋の方に向かった。

 青年は、薪小屋の横を通る小道を歩いていた。博打に負けた憂さ晴らしに近くの食堂で酒を飲み、居合わせた客に絡んで騒ぎを起こしてきたところだった。ちょうど通りかかったところでピックが目に入り、悪戯に小石を投げつけたのだ。ピックは臆病な犬だ。一方ならぬ恐怖を感じて青年に向かって吠え立てたのだった。それに対して青年は逆上し、そばにあった棒切れを思い切り振り下ろしたのだ。

 青年は、母屋の玄関の前に立った。入り口の戸は開け放たれている。玄関が見える正面の客間で父が設計の仕事をしていた。

「オヤジ、お前の家の犬がうるせえんだよ。迷惑なんだよ。どうにかしろ」

全くの言いがかりだった。父はその青年を少しも相手にしなかった。一度だけ青年の方に目をやったが、後は一切見ようとしなかった。

「この野郎、何とか言え」

と叫んでも父は相手にしなかった。

「この野郎、お前、俺をバカにしているのか」

「何とか言え、この野郎」

青年が何と言おうとも父は相手にしなかった。

 やがて、この騒ぎを聞き付けて近所の人たちが集まってきた。皆心配そうな面持ちで遠巻きに見ている。と、その中に一人の女性がいた。青年と一緒に暮らしている彼の姉だった。彼女は夜の飲食店に勤めている。

(また始まっちゃった。こうなっちゃうともうだめ。警察に頼むしかないわ)

青年がこうした騒ぎを起こすのは初めてのことではなかった。いつも彼女が尻ぬぐいをしていた。

 青年は、仁王立ちになって父の方を睨んでいる。時々棒切れで地面を叩き威嚇する。

 母は、私たちの肩を抱き、息を潜めて玄関の様子を伺っていた。そして、青年が外に少し目を逸らしたとき、私たちを裏口から逃がした。三人とも裸足だった。怖くて震えが止まらなかった。逃げながら後ろを振り返ったとき、一瞬、青年の悲しい横顔が目に映った。

 私は、近くの公園に行ってブランコに乗った。父と母のことが心配だった。それに祖母とピックのことも。と、公園の外を白い幌掛けジープが通った。頭に赤色灯が付いている。見るとその後部座席に青年の姉が乗っていた。彼女は、弟の愚行を警察に知らせに行き、パトカーに乗って警官を弟のいる場所へ連れて行くところなのだ。

 青年は抵抗しなかった。博打と酒に溺れた末の悲劇だった。

 家に帰ると、ピックは犬小屋の中で眠っていた。お腹の辺りを強く叩かれたが、傷を負うようなことにはならなかったようだ。祖母はその後、薪小屋の中で事が行き過ぎるのをじっと待っていたそうだ。


あの出来事は我が家にとって大きな事件だった。誰も怪我をすることなく解決したのは幸いだったが、一番怖い思いをしたのはピックだった。事件の後、ピックは随分と神経質になって、知らない人の気配がするとすぐに吠えるようになった。時々、夜中に急に吠え出すこともあり、隣近所に迷惑を掛けることが増えた。

 そして間もなく、ピックの犬小屋は北側の軒下に移された。そばに大きな胡桃の木があって、わずかな陽光を遮った。決して住みやすい環境とは言えないが、ピックが居る場所はそこしかなかった。晩秋の空に胡桃の葉が黄色に染まり、やがて実を落した。たまに夜の風に吹かれた胡桃の実がピックの屋根に落ちることがあり、驚いて目を覚ました。

 私が春から通っている幼稚園は楽しかった。家から歩いて行ける距離だったし、周りの友だちも穏やかだった。

「ピック、今度、幼稚園で劇をやるんだよ。イエス様のお話で、僕は羊飼いの役なんだ。『しもべは聞きます。お話しください』って言うんだよ」

私は犬小屋から出てきたピックの前足をとって話しかけた。ピックは、首を傾げて「クー」と言った。空はきれいに青く晴れていた。朝の明るい陽射しが犬小屋とピックに当たっていた。

 秋の空は変わりやすい。その日の夜から雨が降り始め、二三日降り続いた。私は長靴を履いて傘を差して登園した。朝、家を出るときに犬小屋の方を見た。ピックは私を見つけると、入り口から顔を出して「ワン」と一声発した。それが、私が聞いたピックの最後の声だった。

 午後に幼稚園から帰る時には雨は止んでいた。いつものようにピックの所へ行こうと、バス通りから家の北側を見た。いつもと同じ風景だったが、どこかが違うと思った。だんだん犬小屋に近づいていくが、どこかが変だ。音がしない。私は走ってピックの所に行った。

(ピックがいない!)

私は「ただいま」も言わずに、玄関から家の中に叫んだ。

「かあさーん、ピックはー?」

母は、エプロンで手を拭きながら玄関に出てきて、こう言った。

「あのね。ピックね。ピックはよその家に貰われて行ったのよ」

「ええ、どうして?」

母は困った顔をして、

「ごめんね。急に決まったことなの」

と言ったが、それは答えになっていなかった。

「ええ、どうして? ねえ、どうして貰われていったの?」 

私は何度も訊ねた。しかし、あの時私は、ピックが貰われていった理由を何となく察していた。きっと母が骨折したことと関係しているのだろうと。しかし、私は、その時はまだ、それを問い質すだけの言葉を持ち合わせていなかった。同時に、母の骨折と関連付けて考えることは、母を悲しませるのではないかという気持ちがあった。そして、あの時、私は、(もうこれ以上訊いてはいけない)と思ったのだ。

 私は、家に入らずに、もう一度ピックの所にいってみた。やはり、犬小屋の中は空だった。空っぽの犬小屋の前に使い古したアルミ鍋があった。

空っぽの犬小屋の静寂。

空っぽの犬小屋の空虚。

この寂しさは何だろう。

もう五十年以上も前の犬の話である。

 

 ところで、この話には、まだ続きがある。私が大人になってから聞いた話である。ピックは確かによその家に貰われていった。しかし、その貰っていった人の目的が何とも言い難い。とても言葉にすることができない。それは要するに……、「いちあか、にぐろ、さんぶち、ししろ」にされたということである。人の手により肉にされ食されたのである。

 貰われてきた時のぷっくりと膨らんだピンク色のお腹を思い出す。初めて付けられた茶色の首輪。新しい銀色の鎖。動き回るたびにチャリチャリと音をたてていた。そしてピックは、毎日味噌汁かけご飯を食べ大きくなった。

 落ち着きがなくて失敗してしまうこともあったけれど、「クー」と鳴いて困った顔で見つめられると許さない訳にはいかなくなる。臆病で怖がりで、自分を守るために精いっぱい吠えていた。ピックはそうやってたった一つの命を燃やしていたのだと思う。

 ピックの存在は、我が家に多くの変化をもたらした。ピックはもうとっくの昔にこの世からいなくなっている。そして、父も母も祖母も今はもういない。しかし、ピックが関わった出来事は、遠い過去の物語として、今も私たち姉弟の記憶に残されている。子どもの頃の断片的な記憶を繋ぎ合わせていくうちにピックの姿がぼんやりと浮かんできた。

 昔、我が家にピックという名の犬がいた。

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