6 カール・フレッシュ
初等部五年生になった。
音階の練習は、毎朝していた。朝の空気の中で最初の主音がキマると気持ちが引き締まり、心地よかった。でも、なかなか納得のいく音階にならなかった。音階が、「カール・フレッシュ」という楽譜になったからだ。まず、このぶ厚い楽譜!紙だ、紙の一枚一枚が厚いからだ。私はむりやりそう思った。
難易度が爆上がりで、音楽高校や音楽大学の受験生には必須らしい。
でも、あたくしには必須じゃなくってよ!!!!!
「しっかりおやりなさい」
背を向けてそう言ったお母さんに、叫んでぶちまけたかった。
ある週末の夜。
デパートの高層階で、制服を着たかおりと「先生」を見つけた。聖花は人数が少ないし、赤いリボンに明るいグレーの制服は目立つ。ティールームから出てきたところだった。そこは確か、フルーツカレーくらいはあったと思うけど、デザートを食べるお店であって、夕食を食べるお店ではないと思うんだけど。
二人ともにこにこしていた。微笑み合うというのだろうか。かおりのことを大切にしている「先生」のエスコートも自然で、傍目にもとても素敵で、とても邪魔したくなかった。あれでも「先生」はまだ中学生なんだ?スーツだし、ますます大人みたいだった。それにしても、かおりはなぜ制服だったのだろう?
私は翌日、かおりに聞いてみた。
「かーおーり!」
「なーあーに!」
かおりで遊ぶのは楽しい。
「昨日、お出かけしてた?デパートの上で見かけたよ?声かけなかったけど。制服でデート?」
「デート?……コンクール」
「コンクール!」
なる程!知らなかった。教えてくれれば見に行きたかったのに!
「それでそれで?どうだった?何かもらった?」
「講評用紙っていう、審査員の先生からの手紙と、一位って賞状と、審査員特別賞っていう賞状と、箱?……筒」
「すごい!」
心から褒めたのに、かおりの表情は変わらない。
そうか……かおりは学校でも一位慣れしてるから特別なことではないのかな……。
「すごい、の?いつもと同じように弾いただけ。でも、先生に『いつもと同じように、美しい音で、気持ちをこめて丁寧に弾いてきて』って言われたから、だから……」
そう言ってうつむいた。可愛いすぎる!
「何の曲を弾いたの?」
「リストの、ノクターンの……三番」
『愛の夢』じゃない!それ、わざとぼかしたの?その表情、決まりでしょ!
「先生のこと、好きなんでしょ?」
「…………うん」
可愛い!
「ね、先生は?両想い?もしかして、もうつきあってる?」
「え?つきあってるって?どうしたら両想いになれるか、わからない……」
もう〜!!先生は何してるのよ!先生はかおりのこと、どう思ってるんだろう?先生にしたら、かおりなんてまだ子供かしら。ううん、かおりは私と違って発育がいい。もう胸も目立つ。つい最近からかわいいブラをつけてるのは、キャミソールから透けてるから知ってる。先生も健全な中三男子ならお年頃じゃないの?まぁ、かおりがこんな状態ならけしかけるわけにもいかないか……。私は応援するよ!
「コンクールで一位だったなら『先生のおかげです!』って告白するのに最高じゃない!」
「あ、そうなんだ?……じゃ、今度、そういう時があったら……言えるように……また頑張るね」
今度?今度って……。また一位を取る気?そんなに頻繁に、そんなチャンスって訪れるものなの?私は頭を抱えた。ゆっくりな人の思考回路がわからない。
私が刺激を与えてしまったからか、その翌日、進展があった。
「マヤちゃん、あの…………」
かおりがこっそり私だけを呼んだ。珍しいな。なんだなんだ。
「なになに?」
私も、小さく答える。
「あのね、先生に聞いてみたの」
「なにを!」
私はワクワクが止まらなかった。
「私はまた今度コンクールに出ますか?って」
そっちか。文法が変だけど、かおりだからな。むしろよく言ったよ。
「先生はなんて?」
私は勢い込んで聞いたが、かおりはしょぼんとしている。
「『もういいよ。かおりには必要ないことがわかったから。また大人になって必要があったらね』って。ねぇ、私はいつ大人になるのかな…………」
あちゃー。本当は最高の褒め言葉なんだけど、かおりの残念がる気持ちがわかる。先生の口調を真似たらしいが、ちょっと想像つかない。でもでも、告白するチャンスなんてつくろうとすればいくらでもある。てか、先生からは?かおりのこと好きでしょうに!違うのかな?あの顔だし、大人だし、女のコには困らなそう。そうだとしたら、かおりはかわいそうだな…………。ううん、先生もかおりのこと好きなはず。
私は応援しつつ、適度にヴァイオリンを頑張った。
カール・フレッシュになり、難易度が爆上がりしたと思ってたけど、理由がわかった。自分の耳が肥えてきて、生半可な音程では自分で納得できなくなったんだ。いい加減な音を出すと、次の音に進みたくなくなった。
私は、無心に音階のそれぞれの音を聴き、前後の音、調性の音、主音に向かう音程を追究した。
音階の練習は、なかなか終わらなかった。
自分で納得するまで、終わらせたくなかった。