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Vibrato  作者: 槇 慎一
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5 クロイツェル42の練習曲



 クロイツェル42の練習曲は、ヴィブラートのレガート、フォルツァンド、ポジション移動、移弦弓、トリル、前打音、オクターブ、デタッシェ、半音階、重音、対位法、重音のトリル、フーガ等、様々な技術の基礎が曲となっている。


 このくらいのレベルだと、学習者向けとは思えない美しいロマン派のコンチェルトや古典派のソナタ、クライスラーの小品がある。マヤの母親は大学以外では弟子を取らなかった。それだけ、娘の音楽教育に力を入れていた。特に発表会もないマヤは、自分で納得するまで練習すると、母親に提示された選択肢の中から好きな曲を練習していた。

 やらされていた感満載のマヤだったが、もう慣れたもので、「ヴァイオリニストのお嬢様は流石ですね」と誰に何を言われても仕方のない、文句のない程の腕前だった。音階と練習曲がきちんとできれば、曲の習得はさほど大変なものではなかった。

 






 学校で、かおりちゃんと二人だけになった時、こっそり聞いてみた。


「ね、かおりちゃん、『しんちゃん』て素敵ね」

「うん。先生は優しくて、ピアノの音もとっても素敵なの。いつもたくさん弾いてくれるの。聴いているのも幸せなの」


 いつもにこにこしている、赤ちゃんみたいだったかおりちゃんが、殊更女の子らしい表情で可愛かった。『先生』って呼んでいるんだ?

「『先生』はいくつなの?」

「えっと…………五年生。お誕生日は四月だから……」

「11才か」

 私にもそんな人がいたらいいのに。私は、既に決められている人がいるみたいで、誰かは知らないけれど、いやだった。


 それでも、ヴァイオリンの練習は続けていた。かおりちゃんもピアノを弾いているからと思うと頑張れた。他にもヴァイオリンやピアノを習っているお友達はいる。でも、私みたいにお母さんに毎日習っている人はいない。普通のレッスンは一週間に一度と聞いてびっくりした。かおりちゃんは私と同じように、毎日だ。先生は「しんちゃん」だけど。あ、しんちゃんが『先生』なのか。


 どんなレッスンだかわからないけれど、あのちょっと歌ってくれた様子だけみても、すごかった。それから次にやってみせてくれた時に鍵盤が足りなくなった、その伸び方も普通じゃない。私がわかるのは、私も同じくらいやっているから。ただ、私はヴァイオリニストになるつもりはない。いつまで続けるかは、お母さんがあきらめてくれるまで。かおりちゃんはピアニストになりたいのかな?


 練習はするけど、ヴァイオリニストなんて考えられない。私はまだ、幼稚部の先生になりたかった。初等部になってから、初等部の先生でもいいかなと思うようになった。だから、中等部になったら、中等部の先生になりたいと思うかもしれない。でも、自由に遊ばせてくれた、あの幼稚部で過ごした毎日は宝物のようだった。いつまでもあの幼稚部が忘れられない。


 かおりちゃんと、あったかい日だまりの中、ほっぺをくっつけるようにして絵を書いたり、皆で本を囲んだり、おままごとをした幼稚部の教室。


 私は、大人になるのが楽しみではなかった。

 それでも、何かのチャンスが来たら絶対に自分のものにするのだと、ヴァイオリンとお勉強を頑張っていた。何かはわからないけど……。



 

 意外なことに……と言ったら悪いけど、かおりちゃんはお勉強はできる子だった。そう、かおりちゃんはおとなしくてゆっくりなだけで、おバカさんではない。


 初等部では単元毎、学期毎にテストがあり、全ての科目で毎回満点なのは、かおりちゃんだけだった。


 私もほとんど満点だったけれど、全教科毎回とまではいかなかった。そんなに真剣にしていなかったなんて言い訳だけど。


 ある時、かおりちゃんにノートを見せてもらった。どのページのにも、隅に日付と時刻が書いてあった。授業前に自分で調べたらしい内容が書いてあり、授業中に先生が話した内容が書いてあり、授業後に自分で復習したと思われる内容が書いてあった。え、この時刻って、もしかして朝?

「毎朝勉強してるの?」

と聞いてみたら、

「うん。帰ってから寝るまでピアノだから、お勉強は朝なの」

と、お母さんには絶対に知られたくないような返事が返ってきた。帰ってから寝るまでピアノ……、帰ってから寝るまでピアノ……そして朝の予習、復習……。かおりちゃんを、心の底から尊敬した。

 

 だからといって私はそれを真似するほどヨイコじゃなかった。私は、登校したかおりちゃんに、「みーせーて!」「いーいーよ!」という具合に、予習したノートを毎日見せてもらった。意外に、かおりちゃんはノリがよかった。真似をするのが上手なんだな。


 予習の内容は、語句の意味を辞書で調べてあったり、関連する内容まで書かれてあった。かおりちゃんの興味のありそうなことは多岐にわたって広がっていて、興味のなさそうなことは通り一遍プラスアルファで、「やらされている感じ」が全くなさそうな様子も伺えた。ところどころに小さな絵が書いてあったりした。


 もちろん、テスト前にも必ず見せてもらった。すると、私も必ず満点が取れた。かおりちゃんのノートを見ただけで全く勉強していなかったし、先生方にかおりちゃんと二人で名指しで褒められることに良心が痛み、そのうちに配点の少ない問題を一問だけまちがえることにした。


 かおりちゃんはもともと可愛いし、いつもにこにこしていたから、マリア様にそっくりだった。私達は、かおりちゃんのことを『幼稚部のマリア』と呼んでいた。かおりちゃんがいない場でも、かおりちゃんがその場にいても、その呼称は活躍した。

「週末あそぶ?幼稚部のマリアは誘わないけど」

……という具合に。『幼稚部のマリア』はそんな会話が目の前で繰り広げられていても、ずっとにこにこしてそこに座っていた。自分のことだとわかっているのにわからないふりをしているなら可哀想だけど、幸か不幸か、本当にわかっていない様子だった。


 『幼稚部のマリア』は、私達の学校案内のパンフレットの裏表紙に写真が掲載されていた。聖花女学院は幼稚部からの少人数の一貫校で、初等部も中等部も高等部も公には募集していない。転勤や帰国子女の為のものだった。マリア様の像の前で目を閉じて静かにお祈りしている『幼稚部のマリア』の写真は、清楚で綺麗だった。

 

 好きな人がいる、女のコらしくて純粋なかおりちゃんがうらやましかった。パンフレットのかおりちゃんは紙の中だし、目を閉じている。私の前で目を見開いて、私に何かを伝えるために口を動かして、うまく言えないながらも一生懸命にお話をするかおりちゃんが可愛かった。


 この学校案内の写真は、意外にいろいろな人が見ていたらしい。


 

















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