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Vibrato  作者: 槇 慎一
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4 音階は、毎日何度でも繰り返す



 「音階」は、マヤが毎日繰り返す朝の日課だった。楽譜には、優しそうな女の人の写真があり、『音階の練習は演奏技術の基礎である』、『熱心な努力をそそぐこと』などと書いてあり、ふとした時に度々それを眺めた為、マヤはすっかり覚えてしまった。そうして、マヤはたくさんの格言を知っていた。


 母親は、毎月レッスン室に弦楽器関連の雑誌を数冊置いておき、マヤは休憩時間にそれを手に取って読んだ。楽譜が載っていたり、ヴァイオリニストのリサイタルについて評論家が意見したもの等。それは勿論、マヤには難しくてわからなかったが、ヴァイオリニストの部屋の紹介するインテリア関連の記事が好きだった。花が飾られた美しい部屋でヴァイオリニストが練習する弾き姿は悪くないなと思ったし、綺麗なドレスを着た若いヴァイオリニストのインタビューの記事などは、話し言葉で書かれていて読みやすく、必ず読んでいた。


『親がヴァイオリンを弾けたとしても、自分がやらないと上手にならない。親がヴァイオリニストだから自分も弾けて当然と、周りから思われることは嫌だった』


 そんな記事を読むと、「わかるー!ほんとよね!まったくだわ!」などとプンプンしながらまた練習を再開した。

 マヤはヴァイオリニストになるつもりはなかったが、もう特技の域だったし、特に母親に言われなくても、いろいろなことがヴァイオリンを通してわかるようになっていった。

 







 四月。

 私達は初等部に進級した。他の学校だと「小学校」とか「小学生」と言うらしい。


 「小学生」になると演奏会に行ける。お母さんは私を演奏会に連れて行くのを、ずっと楽しみにしていた。本当はもっと早くから連れて行きたかったみたいだけど、私は背が低いから……。お母さんは、出かける前にお稲荷さんを食べてご機嫌だった。私はお母さんがご機嫌なのも嬉しいし、練習しなくてもいいことはこの上なくご機嫌だった。


 私は余所行きのワンピースに着替えて、普段は使わない綺麗なポシェットに、レースのハンカチとガーゼのハンカチとティッシュをつめて出かけた。


 学校の通学鞄を持たないので両手が空く。車のふかふかのシートにもたれ、私の左手は自然に上を向いて軽く握り、ヴィブラートの動きをした。そう。いつの間にか出来るようになっていた。何回動かすとか、大きくゆったり揺らすとか、他人にわからないくらい小刻みにシュッと動かすとか、自在に操れるようになった時、お母さんはすごく褒めてくれた。あんな風に褒めてくれたのは、初めてだった。あんなに難しかったのも、初めてだった。


 でも、ヴィブラートはもっといろいろな種類がある。曲によって、場面によって正しく使い分けるらしい。

「やりすぎてはいけません。お料理で言うと、お味が濃くなりすぎると、素材の良さがなくなります。素材の良さを引き立たせるためにヴィブラートするのです」

 そんなふうに、私の判断は、たまにお母さんによって直された。スタイルの違い、作曲家の生きていた時代によって変えるのだと言う。やればいいわけじゃないんだ、できればいわけじゃないんだ、と更なる高みに萎えた。




 クロークにスプリングコートを預け、私はお母さんからプログラムを受け取った。つるつるした綺麗な紙だった。書かれているのは、私も知っている曲ばかり。家のオーディオでしか聴いたことはないけれど。

 私はそれらを、楽譜を見ながら聴くのが好きだった。音符の流れを眺めるのは、本を読むのと同じくらいに好きだった。ヴァイオリンのパート譜を見ながら聴くのも好きだし、ピアノの伴奏譜を見ながら聴くのも好き。気に入った曲なら指揮者が使う総譜も見た。

 総譜は、見る場所がありすぎて、全てを追うことが出来なかった。

「指揮者って、これどうやって一度に全部見るっていうのよ!」

 果てしない『勉強すること』があると思うと、今自分に課されたものだけでよいのだと思い、少し気が楽になった。


 私はまた、自然に左手でヴィブラートしていた。もう、癖になっている。

「そうら、ごらんなさい。出来たでしょう。頑張りました。芸は身を助けるのです。これからもよくよく続けなさい」

 そんな、お母さんの言葉も思い出していた。



 




 開演前。

「こちらでございます。お足元にお気をつけくださいませ」

 係の人に案内されて、私達のいる招待席の方にやってきた人を見て、あっ!と思った。


 かおりちゃんだった。桃色のワンピースを着ている。制服と体操服以外のお洋服姿のかおりちゃんを見たのは初めてだった。一緒にいるのは「しんちゃん」だ。かおりちゃんも背が高いけど、当然「しんちゃん」はもっと背が高くて、スーツを着ていて、大人みたいだった。二人だけで来ているみたいだった。


 この大きなホールの、座席の中央の二列が招待席だった。私達が座っていたところと、かおりちゃん達が座ったところは離れていたから、声はかけなかった。こうして「勉強」に来ていることが同じで、私は嬉しかった。


 それにしても、幼稚部のころのかおりちゃんは、あまりにも赤ちゃんみたいだったから「しんちゃん」がお兄ちゃんに見えたけれど、今こうしてみると、まるで恋人同士みたいだった。「しんちゃん」がかおりちゃんを見る目の優しいこと、段差に注意するよう指差していること、おそらくかおりちゃんの声が小さくて、口元に耳を近づけていること。なんだかとっても素敵だった。かおりちゃんも背が高いから、小学一年生には見えない。長い髪をたらして桃色のワンピースを着たかおりちゃんはかわいいし、デートみたい。いいないいな。お母さんに連れられて、おかっぱ頭で紺色のワンピースの私にはうらやましかった。



 チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の演奏会は、華やかでドラマティックで素敵だった。


 でも私はチャイコフスキーよりも、かおりちゃんと「しんちゃん」の恋人同士のような雰囲気の方が、ロマンティックで素敵だった。


 

 










 

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