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Vibrato  作者: 槇 慎一
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1 お母さんの口ぐせとヴァイオリン


 ヴィブラートは、習得が大変な技術だ。少なくとも、就学前の幼児には。だが、ヴァイオリニストの母親から英才教育を受けているマヤは、既にそれに取り組む段階にきていた。





 ヴィブラートなんて、なくてもいいのに。あった方がきれいなのはわかる。でも、わざわざしなくてよくない?お母さんだって、ヴィブラートしなくても綺麗な音がする。私だって、ヴィブラートしなければ綺麗な音がするのに。


 今日もたくさん練習したけど、まだうまくできない。肩がいたい。私はヴァイオリンの肩あてを外した。小さなヴァイオリンを抱きしめて、指板を握り、左手でヴィブラートの動きをおさらいする。いつか、綺麗なヴィブラートができるんだろうか……。


 お母さんはヴァイオリニストで、大学の先生。お父さんの仕事は、よく知らない。家の運転手さんに連れられて出かけていく。私が寝てから帰ってくるお父さんのことは、ほとんど知らない。


 お母さんの知り合いに会うと、必ず聞かれる。

「マヤちゃんは将来、何になりたいの?」

 そんな時、私は、

「聖花女学院の先生です」

と答えることにしている。あの幼稚部に入りたい。先生はもちろん、お友達がにこにこして楽しそうだから。

 お母さんのお友達とか知り合いは、ほとんどが音楽家。その人達みたいになるのは、なんとなく嫌だった。毎日毎日たくさん練習しなくちゃいけない。お母さんだって、今でも毎日練習をしているのを、私は知っている。


 お母さんの口癖はこう。

「芸は、身を助けるんです。必ず役にたつ時がきます。それまで、我慢して続けなさい」

 お母さんみたいに弾けるまで?いつになるの、それ。しかも我慢して続けるとか、嫌。でも、そんなことは言えない。


 だから絶対にヴァイオリンの先生になりたいとか、ヴァイオリニストになりたいなんて言わない。大人の人達はそう答えてほしいっぽいけど、絶対に絶対に言わない。だから、はっきりと答える。「聖花女学院の先生になりたいです」と。


 


 秋になり、私はいつものように紺色のお洋服を着せられ、お父さんとお母さんと一緒に出かけた。毎日のように聞かされた聖花女学院幼稚部。私はこの幼稚部に入りたかった。他の幼稚園も見に行った。でも、他の幼稚園のほとんどは、前を向いて何か決まったことをさせられていた。聖花女学院は、シスター先生が優しくて、皆それぞれ好きなことをして遊んでもいいところだった。


 何回か通ったお教室でも言われたとおり、手はおひざ。お話をする先生の目を見て、先生のお話を最後まで聞いてから、大きな声ではっきりと答え、お口を結ぶ。にこっとすることも忘れない。


「ここに通いたいお友達が、全員必ず通える幼稚園ではないのですよ」

と、お母さんにはさんざん言われていたけれど、こんなに行きたい私が行かなくて誰が行くの?という気持ちだった。そのためなら、ずっと良い姿勢で座り、誰かに余計なことを話しかけられても沈黙していた。ヴァイオリンの練習の方がよっぽど大変だった。お母さんには言わないけど。


 数日後、春から聖花女学院幼稚部に通えることになったとお母さんから聞いた。やったー!と喜ぶよりも、あたりまえじゃない、と思った。うっかり「そうら、ごらんなさい」と口から出そうになった。あぶないあぶない。そんなことを言ったらお母さんにおこられる。でも、嬉しかった。


 春まで、まだまだある。待ち遠しい。

 毎日毎日、朝も昼も午後もヴァイオリンを練習する日が続く。音階、音階、アルペジオ。全部の弓を使って長く、太く。弓の元を使って豊かに、弓の先を使って繊細に。お母さんとじゃんけんをして、勝ったらコレ、負けたらソレと決めて、毎日毎日あれこれさせられていた。

 カイザーのエチュード、エチュード、数種類のリズム練習。必ずお母さんが弾いてくれて、それを真似した。真似するのは得意だ。お母さんは、次から次へと新しいリズムのクイズをするように、私に弾かせた。ピアノで伴奏を弾いてくれる日もある。伴奏を弾いてくれると、上手になった気がして好きだった。

 それから曲。二人で同じ曲の同じメロディーを弾くのも楽しかったし、二重奏……特にモーツァルトは楽しかった。曲の最初から始める人、曲の最後から始める人が同時に弾いて、素敵な曲になっていた。こんなことを考えつくモーツァルトってすごいなとか、音楽で様々なことを楽しく学んだ。

 最後のヴィブラートの練習になると、疲れていたことを思い出し、嫌だな~と思っていた。


 ヴィブラートなんてしなくてもいいじゃないの?あたくし、やりたくありませんわ!


 そう言えたら、どんなにいいだろう。


 どうせ、言ったらこう。

「芸は、身を助けるんです。必ず役にたつ時がきます。それまで、我慢して続けなさい」

 

 でも、そんな時がくるかどうか、わからなくない?

 それより、はやく幼稚部に行きたい。


 私はしぶしぶヴァイオリンの練習を続けた。

 オスカー・リーディング作曲の、ロマンスとコンチェルトを仕上げた。


 私がどんなに疲れていても、にこにこして曲を弾くと、レッスンは終わる。そういう顔をして弾けばいいのだ。

 気をつけるところを頭に入れて、1回で終わらせる。


 さあ、遊ぶぞ!


 もう夕方だけど、私のお楽しみはこれから。

 今日は何をしようかな。ひとまず、まだ読んでいない本をごそっと取り出して、ソファに広げた。


 家政婦さんが呼びにくるまでが、私の自由時間。


 


















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