走馬灯
「私は、子どもなんかいらない」
それが、僕の聞いた最後の言葉だった。もしかしたら、最初に聞いた言葉もそうだったのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、僕の体も、そして心も、空中に投げ出されていた。
「俺は子供なんかいらねぇんだよ!」
ガラスの割れたような音と、男の怒鳴り声に、僕は目を開ける。そこには、一組の男女の姿があった。
頭から血を流している女の方は見覚えがある。僕を生んでおいて、世話の1つもろくにしなかった女だ、見間違える筈もない。
だが、男の方は誰だろう、全く見覚えがない。
「この子はどうするの?」
女が泣きわめく。
「どうするも何も、堕ろせとさっきから言ってるだろう。」
右手に割れた酒瓶を持つ男が怒鳴る。
「もう堕ろせないのよ!」
「それはお前がずっと隠していたからだろう。」
「違う、私は、ずっと...悩んで、でも」
なんて見苦しいんだろう、僕は心底呆れていた。
二人とも冷静ではない。女は頭から血を流している上、どう見てもまともな状態ではない。男の顔が赤いのは、酒が入っているのか怒っているのか、いずれにせよ冷静ではないだろう。
「もういい、俺は出ていく。子どもの世話なんざできるか。」
そう言うと、頭から血を流す女を置き去りに扉へと歩き始める。
「待って、これは私とあなたの子どもなのよ。」
女が叫ぶが、男が聞き入れる様子はない。
そこで僕は気付いた。
(待てよ、こいつが僕の父親か、初めて見た。)
しばらく呆然としていた女だったが、携帯を手に取り何かし始めた。
救急車を呼ぶのかと思ったが、押している番号の桁数からして、どうやら違うらしい。
「お母さん、私ね、子供が出来たの。」
明らかに暗い声で女が言う。
「ほんとう?良かったじゃない。」
電話の相手は女の母のようだが、声が暗いことに気付く様子はない。
「うん。また、連絡するね。」
そう言って電話を切った女は、携帯を壁へ投げつけた。
「何も、何も分かってない!」
女は再び泣きわめく。
「誰も、誰も私のことなんて心配なんてしてくれない!」
それをお前が言うのか。僕の世話なんて何もせず、何の心配もしてくれなかったお前が。僕は心の中で激しく女を責め立てる。声に出そうかとも思ったが、どうせ聞こえないだろう。
「もう、死のうかな。」
女は台所を向いているように見える。
だが、この女が死なないことを僕は知っている。なぜなら、僕が生まれているのだから。
そう頭では分かりつつも、ここでこの女が死んでいれば、生まれずに済んだのかと思案する。
そんなことを考えながら、女を観察すること半年。
気付いたことがあった。この女、家事が全く出来ないのだ。いつも料理がスーパーの惣菜なのは、料理が面倒だからだと思っていたが、どうやら料理が出来ないらしい。料理の本を買う金もなく、スマホを契約するお金もない。
生活保護、という文字が頭をよぎるが、女にそれを知る手立てはない。既に妊娠から半年が経ち、働く術のない女には収入もなかった。
(節約してるんだと思っていたが、まさかそんなお金がないとはな。)
僕は驚きを禁じ得なかった。
もう一つ、分かったことがある。女のアドレス帳だ。
そこには、あの鈍感な母のアドレスしか登録されていなかった。こんな状況を誰にも相談出来ず、全て一人で抱え込んでいた。これでは、まともに育児が出来ないのは、どう見ても明らかだし、僕はそれを身をもって知っている。
(僕は何も知らず、毎日責めていたのか。)
ささやかな後悔の念。
彼女もまた、被害者だった。
自力で料理を習得しようとして、指に切り傷を作る女の背中に、聞こえないと分かりつつも声をかける。
「ごめんね、母さん。」
「あなたは悪くないのよ。だけど、何も出来ない私には、子供なんて身に余るもの、いらなかったわね。」
僕の声が聞こえたのか、それとも独り言なのか。まともに向き合って来なかった僕には分からない。
けれど、一つだけ分かることがあった。
(気付くのが、遅かったみたいだ。)
ここで、僕の意識は途切れた。