第一話
「……」
のそり、ゆっくりと体を起こす。
はらりと肩を滑り落ちる髪が視界に入って、わたしはまだぼうっとする意識の中でその髪の毛をそっと手に取った。
徐々に意識が覚醒してくる。
…わたし、確か車にはねられて…あれ、生きてる…?
ううん違う、だってわたしの髪、こんなに綺麗な銀髪じゃない。
…あ、なに、誰これ。
目を見開きガバッと立ち上がった。
どうやらベッドに寝ていたようで、勢いをつけすぎて思い切り尻もちをついたけど、ジンジンとした痛みを無視して鏡を探す。
部屋の隅にある地味な茶色の鏡台を見つけて駆け寄り、もう目玉が取れるんじゃないかってほどに目を見開き愕然とした。
「…誰これ…」
鏡に映るのは間違いなくわたしじゃない。
わたしの目は二重だし、おっきい。
でも今鏡に映るこの人の目は一重で切れ長だ。
髪だって栗色じゃなくて銀色。
多分、どんなに有名な美容室で染めてもこんなに綺麗な銀髪にはなれない。
…わたしとは真逆の、すごく綺麗な人だ。
ワンピースのような服を身に纏い、半袖から覗く腕、そしてスカートから覗く足は白い。
日焼けしない体質なのかインドアなのかわからないけど、とにかく白い。
なんだこれは。
どうなってる。
わたし、確かに車に撥ねられて…。
「起きてらっしゃったんですね、お嬢様」
「ひいっ!?」
急な声に心臓飛び出る勢いでビビって振り返ると、わたしの反応に声の主は驚いたようだった。
「…申し訳ありません。ノックしたのですがお返事がなかったので」
「……」
この人の格好…執事?
わたしがこれまでに触れた漫画とかで見た執事と似たような格好をしてる。
でも、漫画の執事は本当に執事って感じで、髪も短くて顔も渋かったりしたけど、目の前のこの人は王子様みたいに綺麗な顔をしてるし、髪も綺麗な藍色で長い。
体も華奢だから、遠目で見たら女の人に見えそう。
あぁもう本当にワケが分からない。
「もう少しで朝食の準備が整います。お支度が終わりましたらいらしてください」
では、と部屋を出て行こうとする彼を慌てて引き止めた。
「あ、あの」
「はい」
「…この人、誰だか分かりますか?」
そう言って自分を指さしたわたしに、彼は驚いたように目を見開き、そして怪訝そうに眉を寄せた。
「あなたは、レベット・リューイヒ様のご令嬢、アンドラ様です。もしかして、お体の具合がよろしくないのですか?でしたら本日は学校をお休みされてお医者様を、」
「あ、あー!大丈夫大丈夫!ちょっと変な夢見て混乱してたの!…そう、混乱してて、だからあなたの名前も教えてもらえると有り難いなって思っちゃったりしちゃったりして」
「……直ちにお医者様をお呼びします。お嬢様は横になってお待ちください」
驚きの速さで部屋を出て行こうとする彼の腕を負けじと素早く掴む。
「ま、待って待って!!」
どうしよう。
この人は、このアンドラって人と親しいよね?そうだよね?
そしたら名前聞いたりしたらそりゃ怪しい。
怪訝に思うのも無理はない。
となったら…正直に打ち明けるべきなのかな。
「あ、あのですね、実は…」
意を決して彼の顔を見上げると、あまりに綺麗な顔に言葉に詰まった。
うっわ、ホントに綺麗な顔…。
肌もツルツルだし、髪の毛もサラサラだし、まつ毛長いし鼻高いし唇の形綺麗だし…。
まだ怪訝そうに顔を顰めて今にも部屋を出て行こうとしてる彼の様子に我に返り、三橋蘭としてのわたしのことを話した。
彼はただ黙って話を聞いてくれたけど、わたしが話し終わる頃には顰めっ面から呆れ顔に変わってて、明らかに信じてもらえてないと分かって落胆する。
信じられないのも無理ないけど、もうどうしたら…。
項垂れるわたしに情けをかけてくれたのか、彼はゆったりと口を開く。
「私がお嬢様の従者になったのはいつだったか、覚えてらっしゃいますか?」
「…覚えてない、というより、知らないです…」
「では、身分の低い私を馬として扱い庭を走らせたのは覚えてらっしゃいますか?」
「え?そんなことしたの?うわ…最低…」
「嘘です」
「嘘!?」
「嘘が嘘です。実際に私は馬としてお嬢様に乗られて庭を走ったことがあります」
…なんなんだ。
というか、それわたしじゃないし。
…でも、この人にとってはわたしがそれをしたってことなんだよね。
「…ごめんなさい」
「あなたはアンドラ様じゃないのに謝るんですね」
「だって、あなたにとってはわたしはアンドラでしょ?そんなことして嫌な思いさせたなら、謝らないと…」
もう一度ごめんなさい、と口にした後で、もう一度目を見た。
「でも、わたしは本当にアンドラじゃないの。三橋蘭。華のJK、モテまくりの日本人なの」
「……はぁ」
返ってきたのは深いため息。
やっぱり信じてもらえないよね、と目を逸らした瞬間、彼は言った。
「分かりました、信じます。少なくとも今のあなたは私が存じてるアンドラ様とは似ても似つきません」
え、と顔を上げると、彼は二重の目を若干細めてわたしを見下ろしていた。
「とりあえず、そちらのクローゼットに制服があります。この後学校なので、それに着替え終わったら扉を開けてください。私は外でお待ちしてるので」
「あっ、ありがとう!」
心から安堵してお礼を述べれば、彼は軽く会釈して部屋を出て行った。
でも、部屋を出る直前。
チラリとこちらを見た彼の目を見てわたしは悟った。
ありとあらゆる好意を向けられてきた。
それはつまり、敵意だって同じくらい向けられてきた。
あの人の今の目、憎んでたり、嫌いな人に負ける目だった。