お風呂はムリ! ~俺は女の子に憑依した~
朦朧とする意識の中で、俺は豪勢な屋敷の一室に立って、目前にいる女性を見上げている。赤髪に赤眼鏡をかけた若い人で、ドレスを着たお洒落な女性だった。
「成功したかしら?」と彼女は顎に手を当てた。
視点が低い。自分の手を見ると、頭が真っ白になった。
「あれ……手が小さい……」
「あなた、お名前は?」
「……名前……あれ……?」
寝起きに夢の記憶が抜けていくように、頭に空白ができていく。欠片も思い出せない。
戸惑う俺に、彼女は微笑んだ。
「ここに来る前、何があったか教えてくれないかしら?」
記憶を絞り出す。
男が、俺に包丁を向けている光景が……。
古く寂れたアパートの一室で、そいつは俺に突っ込んできた。そこで記憶が途切れている。痛みさえ覚えていない。
だから、今は無感情だった。
これが、本当に記憶なのか?
「……誰かに、刺された?」
俺は首を傾げた。
「そう。酷い目に遭ったのね」
哀れむ表情で、女性は俺を抱き寄せた。そして、
「この子は、精神が酷く傷ついてしまったから、休む時間が必要だったの。だから、亡くなったあなたを、この子に宿したのよ。あなたは今日から、“サラ”という名前よ」
「サラ……? ん、サラ?」
抱きしめられ、俺は大きな温もりを感じた。人の優しさに包まれ、子供の甘え心を思い出す。
だが、違和感も同居した。自分が女性の腕に抱かれるほど小さくなったこと、そして突然与えられた「サラ」という名。
馬鹿な。名前すら覚えていないが、俺は男で、とっくに成人しているはずだ。
左手に、鏡を見つけた。ぼんやり目を向けると、次第に意識がはっきりとしてくる。
俺の姿は、青を基調とした衣を着て、髪は金色のショート、かなり整った顔立ちの……女の子だった。
「ええぇぇぇ!?」
鏡に向かって驚愕する自分の姿は、まるでムンクの叫びだった。
それにしては可愛いムンクだ。眉の上で整う前髪に、耳から揉み上げが垂れている。瞳は透き通るような青色。
可愛い。これが自分だというなら、逆に幸せかも……って、そんなこと言ってる場合か!
「サラは、何歳ですか?」
俺は、いや、私は恐る恐る訊いた。
「たしか、十二歳よ」
「えぇ!?」
「あなた、亡くなる前は、いくつだったのかしら?」
「覚えてないけど、とっくに大人だと思う……」
答えると、彼女は口を抑えて笑った。
「ウフフ。じゃあ、ませた女の子ね。これは秘密にしてあげるから、第二の人生、楽しんでね。ウフフ」
体は十二歳の女の子、中身は大人の……。摩訶不思議なことが起きているのに、その赤眼鏡の淑女は楽しそうに笑っていた。失敗した人生をやり直せるかのような喜びに、私も笑みが溢れてしまう。失敗したか、覚えていないけど。
彼女は名前を、
「私は、マーガレットよ」と教えてくれた。
ふと、部屋の扉をノックする音が三回。
「エリス? 入ってらっしゃい」
入ってきたのは女の子だった。蒼くて長い髪、可憐なドレスを着た可愛らしい娘。
だが異様にも、足が宙に浮いている。幽霊のようだった。
「ひっ!!」
私は反射的にマーガレットさんのスカートを掴んだ。
「ウフフ。お化けじゃないのよ」
マーガレットさんが微笑んで弁護する傍らで、エリスが無邪気な笑みを浮かべ、私に近づいてきた。
「この子が、今朝言ってた子?」
声からすると落ち着いた子だった。幽霊のように浮いているが、顔色は非常に良く、蒼く長い髪をはじめ、とても可愛らしく、しっかり足もある。
「そう。この子がサラよ。今日から仲良くしてね」
マーガレットが言うと、エリスは目を輝かせ、ゆっくり私に抱きついてきた。
「よろしくね、サラちゃん」
幽霊が忍び込んでくるようで恐ろしかったが、抱擁されると体温を感じた。
良かった、ちゃんと、人だ。
抱きしめられつつ、私も彼女の腰に手を回す。華奢な体で、可愛いな。
「うん! よろしくね。エリスちゃん」
もう、ずっと抱きしめていたい……
ってダメダメ!
マーガレットさんはその間に、衣服の用意をし始めたらしく、
「じゃあ、今日はもう遅いから、二人でお風呂でも入ったら? 公衆温泉みたいに広くて快適よ」と。
「はーい」
「えぇ!?」
陽気に返事するエリスに対して、私は身じろぎした。
『二人でお風呂』という言葉を聞いて、思わずエリスを見てしまったり、自分の体が気になったり。
異常にドキドキしている。
馬鹿な。決して、やましいことなど考えてもいないんだから!
そ、そんなこと思ってないんだから!!
そもそも気のせいなのよ! 私は女の子だったのよ!!
だ、だめだ。その一線を越えてはいけないのだ。
地獄のような背徳感を知るよしもないのか、マーガレットに着替えを渡される。
そもそもこの人は、元男を召喚する可能性を考えていなかったのか!?
エリスに手を引かれた。
「じゃあ、行ってきます!」
宙に浮くエリスの引力に引っ張られるが、これがとんでもない力で、靴が地面を滑り出す。
待て。初対面の女の子と仲睦まじく風呂に入るなど許されるはずがない。日帰り温泉でも男湯には来ない年齢でしょう! そうでしょう!
「ちょ、ちょっと待ってぇ!」
「ごめん、サラちゃん、力が強かったね。これ私の魔法なの」
そういう意味じゃないの……。これ以上進んではいけない病が……。
「そ、そうじゃなくて」
「じゃあ行こう?」
結局私は、引きづられるように風呂場まで引っ張られていく。「魔法」という言葉を認識する気力もなかった。
温泉のように広い脱衣場で、何の抵抗もなく脱いでいるらしきエリスに目を背け、ドキドキしていると、
「サラちゃん、どうしたの?」
「な、何でもない!」
「脱がないの?」
「い、いや! そ、そ、それは!」
「恥ずかしくて脱げないなら、脱がしてあげましょうか……?」
後ろから意地悪そうな声。エリスはゆっくりと私の両肩に手を乗せた。滑らかで官能的なタッチ。
昇天しそう。
……いや、むしろ昇天しろ、罪深き私よ。
罰として、貴様は去勢だ。
いや……すでにない。
何を言っているんだ。
もう、何でもいいや。
さて、サラちゃんという女の子だが、思えば十二歳にしては体は
そんなこと考えちゃいけません!!
そして現在、諦めて大浴場の湯船に、エリスと二人でいる。
沈黙が流れるなか、私はエリスに背を向けてしまっている。彼女は悲しんでいるだろうか。でも振り返る勇気がない。
どうして私はサラなの。
それにしても、この背徳感は何だ。何か、やましい欲望でもあるというのか。馬鹿な!
もしや、私が男だとしたら……これは俗に言う、ロ……。ふざけるな。
こうなれば、脳内から女に変えてやるのだ。
私は湯船の壁に頭を当てた、何度も。
私は女だ……私は女だ……!
「サラちゃん、どうしたの? 駄目だよ! そんなことしちゃ!」
水音を立てながら寄ってくると、エリスは私を羽交い締めにした。彼女の肌を感じ、頭が真っ白になった。だがエリスは、すぐ私を放すと、
「サラちゃん辛いことあって大変だったね。このお屋敷にいると良い事たくさんあるよ。私も救われたの。だからサラちゃんもきっと心が癒やされるよ。大丈夫だよ。ね?」
と優しく語りかけてくれた。
哀愁の漂う言葉で、私は自分を取り戻す。
マーガレットさんは、「サラの心が酷く傷ついたから、代わりに死んだ私を宿した」と言っていた。
『サラちゃんもきっと心が癒されるよ』
エリスがそれを知っているがゆえの言葉か。エリスを今は落ち着いて見られる。初対面の穏やかな反応から察するに、穏やかなのが本性だろうか。だとしたら、今までは私を元気づけるための空元気だったのか。
エリスの人間味を深く感じると、煩悩は吹き飛んだ気がした。
この子とただ仲良くなって、「サラ」として幸せになりたい。
振り返ってエリスを見る。湯気いっぱいの水面から出ている顔が、ニコリと笑った。