ー第二十九話ー 勘違いをさせて欲しい刻 あなたで良かった刻
孝介は、機械の甲高い音で、目を開けた。
そこは、薄暗いいつもの部屋ではなく、白に統一された部屋だった。
壁も天井もベッドも布団も白で、カーテンはベージュで、空調の風を受けて揺らめいていた。
少し時間がかかったが、孝介は現在地を把握した。
どうやら、自分は病院に運ばれたようだった。
病室は個室で、孝介が目を覚ました時は、誰も居なかった。
左腕に点滴のカテーテルが刺され、動いたらダメだというとこは認識できた。
右手の手元に、ベッドのリモコンがあった。
体は自分で自由に起こせることがわかった。
孝介は試しに、体を起こすボタンを押した。
腰から背中の部分がゆっくりと起き上がり、同時に、その動きに合わせるように、膝の部分が曲がりだした。
孝介の視点が変わり、部屋の入口が見えるようになった。
なんだか、目が疲れたので、そのままの姿勢で、目を閉じた。
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孝介が目を開けると、父の祐介と母の紗也子が顔を覗き込んでいた。
起こしてあったベッドは、元の寝る状態に戻されていた。
「目ぇ覚ました。」
紗也子は祐介の方を向いた。
「幸田のじぃじゃから聞いたぞ。」
祐介は、孝介の顔を確認した。
「あんれ?とぉとにかぁか。無理にこんでもいいがんに。」
孝介は薄っすらと目を開けた。
「何言うとるがいね。こんなに顔腫らして。心配するに決まっとるがいね。」
紗也子は、孝介の顔を両手で挟み込んだ。
「とりあえず、目、覚ましたって、伯父さんと幸田のじぃじゃに伝えとくわな。」
そういうと、祐介は席を外し、連絡をしに行った。
「とりあえず、着替えとかは、幸田のじぃじゃが、持ってきとるさかい、安心しまっし。」
紗也子が孝介の顔を揺さぶった。
「わぁた。あんやと。」
孝介は、紗也子に応えた。
紗也子は、入り口の方をみて、再び孝介を見た。
「孝介、今、お医者さん、来るって。もうちょい起きとれるか?」
孝介は、目で頷いた。
少し立つと、病室に医者と看護師が入ってきた。
「中村さん、ご機嫌はいかがですか。」
そういいながら、孝介の両腕を押した。
「うん、気持ち悪い。」
孝介は、医者の顔を見て、今の感想を言った。
「点滴に、吐き気止めも追加しますね。」
あっさり言う医者の顔をみて、孝介は目を閉じた。
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孝介が目を開けると、目の前が真っ暗だった。
うっすらと人影が見えた。
孝介を見て、なにか言ってるようだったが、はっきりと聞こえなかった。
何か見せようとしているが、それが何かわからなかった。
首を振るのも、反応を示すのも辛かった。
それでも何か言い続けていた。
『頼む、寝かせてくて』
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孝介が目を開けると、そこに祖父の英吉が居た。
孝介に気づくと、英吉は孝介の顔を覗き込んだ。
「たいそうないんけ?」(つらくないか?)
「なん、今は大丈夫。」
孝介は返事を返せれた。
「じぃじゃ。」
「なんじゃ。」
英吉は、ベッドの横にある椅子に座った。
「今日、何日なん?」
「12月の6日や。」
「ほうけ。」
孝介は、1週間ぐらい意識がはっきりしてなかった事に気づいた。
「とぉと、と、かぁか、来たな。」
「ワシがおらん時に来とったみたいやな。」
「他、誰、来とったん。」
「純介の家族と、洋介の家族が別々に来とった。」
孝介が目を覚ましていないときだったようだ。
「翔太が、目開けたとか、言っとった。」
あの影は翔太だったか。と孝介は考えた。
「お前のスマホに、沢山、連絡来とったから、返事返しといたぞ。」
「あんやと。」
病室には、孝介のスマホは置いてなかった。
「あとな・・・」
孝介の耳に、英吉の声が届かなくなった。
孝介は、再び、目を閉じた。
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孝介が目を開けると、真っ暗だった。
外からの光と、天井の模様が見えた。
目が見えることを確認した。
左に人影が見えた気がした。
看護師が、見回りにきて、点滴を変えていた。
「中村さん、起こしてしまいましたか。」
孝介は反応しなかった。
看護師からは、孝介が薄っすらと目を開けていることだけ見て取れた。
「調子が悪かったら、ナースコール押してくださいね。」
看護師は孝介の左手にナースコールを握らせた。
孝介の視界から人影が消えると、パタパタと軽い音が遠ざかっていった。
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孝介が目を開けると、祖父の英吉が居た。
「じぃじゃか。」
英吉は振り向いた。
「起きたか。」
英吉は、孝介の掛け布団を整えた。
「昨日な、室生さんから連絡あってな。」
孝介は英吉の横顔をじっと見つめた。
「20日まで仕事に集中するから、それ以後に来ると、言うとったわ。」
「今日、何日なん。」
「9日や。」
孝介は、視線を天井に移動させた。
「ほか。無理せんかったら、いいがやけど。」
「無理せんかったらええがんは、孝介、お前の方や。」
英吉は、冷蔵庫や荷物をゴソゴソと触りだした。
「なんか、口に入れたいもん、あっか?」
「なにあらん。」
「お茶か、りんごジュース。固形物はダメだと医者が言うとった。」
「じゃあ、りんごジュース。」
英吉は、吸いのみにりんごジュースを移し替えて、ベッドのリモコンで孝介の体を起こした。
「口に流すから、飲むタイミングは自分で測れや。」
英吉は、吸いのみの細長い口を、孝介の舌に押し当てて角度をつけた。
孝介の口の中にじんわりとりんごジュースが流れ込んできた。
孝介は、舌の感覚を確認すると、少しづつ、飲み込んだ。
そして、吸いのみの半分くらいで止めてもらった。
ベッドの角度を起こしたままにしてもらい、首を枕に押し当てた。
「ねえ、じぃじゃ。」
「なんや。」
「お願い、あれんけど、いいけ。」
孝介は、英吉の方に顔を倒した。
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孝介が目を開けると、夕方だった。
天気がよく、空は夕日を受けて全面真っ赤に染まっていた。
能登の冬の夕暮れは、忙しない。
晴れたかと思ったら、一気に雲が寄せてくる。
でも雨が振りやすいので、空気が澄んで、どこまでも真っ赤に染まる。
そして、一気に夜の闇が迫ってくる。
冬の夕焼けは短い。
「中村さん、大丈夫ですか。」
孝介の視界に人影が覆いかぶさった。
室生が見舞いに来ていた。
「室生さん、仕事は?」
孝介は室生を見上げた。
「あと、ちょっとで今年の分を終わらせます。」
室生は力強く応えた。
「21日から有休とって、年始年末の休みに合わせました。」
「じゃあ、室生さん、どこか、ゆっくり出来ますね。」
室生は、首を横に振った。
「少し、中村さんに、お礼をさせてください。」
室生は、孝介の右手を両手にとり、ぐっと力を込めて握った。
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孝介が目を開けると、鉛色の雲が、空をものすごい速さで流れていた。
都会では見ることのない、分厚い雲が、一気に空に押し寄せていた。
外は真っ暗になり、病院内の電気が一斉に点いた。
その瞬間、空気が、固まりでぐらっと揺らめいた気がした。
激しい光と、耳に入り切らないほどの轟音が響いた。
1度ではなく、何回も何回も。
病院の建物が、大きく振動し、窓ガラスが激しく波打った。
孝介から見える窓からも、太い光の帯が、幾度も地面を打ち付けた。
このシーズン、冬のシーズンは、日本海側では、幾度も激しい雷が落ちる。
そのたびに、天気が変わり、冬へと一気に加速していく。
孝介は何年ぶりかの北陸の冬だった。
雷が収まったと思った瞬間、大粒のあられが降り出してきた。
あられは、窓の桟にどんどん、降り積もっていった。
窓に張り付いたあられが溶けてそのまま窓ガラスや桟に残り、その上に更にあられが乗っていった。
窓ガラスはどんどん冷えていき、内側は湿気で大粒の水滴ができて、窓の下にどんどん落ちていった。
冬が始まった。
孝介のそばに来ていた。
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孝介が目を開けると、医師が朝の回診に来ていた。
「今日は、目を開けられましたね。」
医師が孝介の顔を覗き込んだ。
「今日は、喋られそうですか。」
孝介はうなづいた。
「無理だと思ったら、喋らなくていいですからね。」
そう言うと、医師は両手、両足を一つづつ抑え、孝介に触れられた感覚を聞いていった。
もう、孝介の両手両足に、触れられた感覚がなかった。
「もう、寝返りも打てませんか。」
医師の問いかけに、孝介は、小さく、はい、と応えた。
「一応、床ずれ防止マットレスは敷いていますが、ご家族に体を動かす手伝いをしてもらってください。私からもお話しておきます。」
孝介は、小さく頷いた。
「もし、辛くなったら、気兼ねなくナースコールを押してくださいね。」
医者は、孝介の左手の握力を確認して、ナースコールを置いた。
医者が病室から出た後、孝介は体をよじるような素振りをしてみた。
上半身が少し体が浮いた。下半身はそれに釣られて動くことを確認した。
右腕や左腕を持ち上げて貰えば、比較的簡単に体を横向きにできそうだった。
ただ、自分一人では同仕様も出来なかった。
孝介はアゴを持ち上げて、ぐっとのけぞった。
胸から下が腫れ上がったような感覚がして、思うように動けなかった。
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孝介が目を開けると、真っ白い天井が目に入った。
ちょうど、他の病室では、朝ごはんの時間のようだった。
にぎやかな声が、孝介の耳に届いた。
孝介は、病院に来てから、なにか口にした記憶がない。
強いて言えば、祖父英吉が飲ませてくれたりんごジュースぐらいだった。
入院してから、ずっと、点滴で栄養分を入れていた。
意識がない時に、体を清潔にしてもらっているようで、たまに歯と唇の間に、濡れた脱脂綿が挟まってることもあった。
しばらくして、祖父の英吉が来た。
孝介は、英吉に体を横に起こしたいと言い、右に体を向けた。
左手に刺さった点滴が抜けそうにならないように、注意をした。
孝介の右側には窓があり、そこから外が見えた。
「外、雪、降った?」
孝介は英吉に尋ねた。
「いんや、前のあられだけや。」
「ほっか、早かったか。」
孝介は横に起こした体を、また、倒した。
「今年の冬は、早なるんかな。」
孝介は天井をみたまま、英吉に問いかけた。
「まだわからんな。鰤起こし、早よ鳴っても、実際雪降ったんが、2月とか、あったしな。」
英吉は、孝介の会話に合わせた。
「ほっか、わからんか。」
孝介は、濁った水のような意識の中、目を閉じた。
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孝介が目を開けると、英吉と室生が病室に居た。
室生は、看護師になにか聞いていた。
「じゃあ、室生さん、あと、頼んわいね。」
「任しておいてください。」
英吉はそう言うと、看護師と病室を後にした。
「室生さん、なにあったん?」
孝介は意識白濁の中、室生を見上げた。
室生は、なにか作業をしながら、孝介の方を見た。
「今日から、中村さんが退院するまで、私が、お世話させてもらいます。」
室生はそう言うと、お湯で濡れたタオルを取り出した。
孝介は取り乱した。何か訴えたが、全く、発音にならなかった。
「何言ってるか、さっぱりわかりませんが、前に病室介護をしていたので、安心してください。」
室生は、胸を張った。
孝介は、少し考えた。
「布団、どかさず、ですよね。」
「もちろんです。」
室生は、孝介の右隣に椅子を置いて、その横にお湯の入ったタライを置いた。
「第一、全部、脱がしたら、介護虐待になっちゃいますからねえ。」
室生はもう一度、タオルをお湯で温めて、絞った。
「布団はそのままに、服もそのままです。ですが、手を入れますね。」
室生は、孝介の布団に手を入れて、服の裾からタオルと手を入れた。
孝介は、動かしようのない体を、室生に任せることにした。
少し自由が効くなら、少し抵抗したかったが、流石に無理だった。
室生の体拭きの手際がよく、タオルが温かい数分のうちに、さっと終わらせた。
元々介護をしていたというのは嘘ではないと思った。
孝介自身、意識があるうちに体を拭いてもらったのが初めてで、体の表面にずっとあった気分の悪さが少し消えた気がした。
それから、着替えとを布団の中で手早く済ませた。
今までは、看護師や他の介護職員が、孝介が意識がないうちにしていたとのことだった。
「あとですね。」
そういう言うと室生は、円筒形のスポンジがついている棒を取り出した。
「これは口の中を掃除する、介護用の歯ブラシです。これで口の中をキレイにします。ので・・・」
室生は、介護用歯ブラシを持って、孝介に顔を寄せた。
「すみません、口を、あーんと、開けてください。」
室生が、口を開ける仕草をすると、孝介も釣られて、口を開けた。
室生はゆっくり確認するように、孝介の口の中を掃除した。
室生は、一通り、孝介を身綺麗にすると、全てお湯の入ったタライに入れた。
「これで、良い感じに、キレイにできました。と。」
室生は、タライを持ち上げて病室を出ようとした。
「室生さん。」
孝介は、室生を呼び止めた。
「なんで、ここまでしてくれるんですか。」
室生は、孝介の足元に立ち止まった。
「今まで、してくれた。お礼。ですね。本当に助かりましたから。」
室生は、目線を1口に向けたまま答えた。
ちらっと、孝介を見ると、スッと、病室の外に出た。
『俺は、室生さんに、なにか、ここまでしてくれることを、したか?』
孝介は、フッと、目と閉じた。
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それから、室生は、毎日、孝介の病室に来ていた。
孝介が意識のある時、意識のない時、関係なく、午前から面会時間の終わりギリギリまで、孝介の世話をしていた。
孝介は、ふとたずねてみた。
「室生さん。」
室生は孝介を身ぎれいにした後の片付けをしていた。声をかけられ振り向いた。
「どうしました?」
「僕は、室生さんに、何かしてましたか?」
室生は、再び片付けを再開し、ぽつりぽつりとつぶやいた。
「雨の中、傘に入れてもらったこと。」
「会社の上司対策教えてもらったこと。」
「WEBデザインの事を教えてもらったこと。」
「お客が何を考えているか教えてくれたこと。」
「便利なサイトを教えてくれたこと。」
「集落の人達と仲良くなるきっかけを作ってくれたこと。」
「ドライブに付き合ってくれたこと。」
「一緒に映画を見てくれたこと。」
「そして・・・」
室生は、片付けを終え、孝介に顔を向けた。
「ここで、生きていっていいって、教えてくれたこと。」
室生は、椅子から立ち上がり、病室の入り口に向けて歩き出した。
「それ、全部、室生さんの、努力の結果、じゃないですか。」
「・・・違いますよ。」
室生は、病室の入り口で立ち止まり、そう答え、静かに病室から出ていった。
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クリスマスが過ぎ、年の瀬が一気に迫ってきた。
クリスマスイブとクリスマスには、室生が世話をする間、祖父の英吉と翔太一家が孝介の病室に見舞いに来た。
孝介が食えないのを承知で、ケーキやフライドチキンのセットを持ち込み、にぎやかに騒いだ。
孝介は、それをみて、アイスケーキが食いたいんだが、とつぶやいたが、それを聞いた翔太に、退院したら買ってやる、と笑いながら言われた。
それも過ぎ、再び、病室に静けさが戻った。
いつものように、室生は、孝介の体をキレイにした後、孝介の右側の椅子に座り、右手を両手で掴んだ。
孝介の病状は、日に日に進んでいき、今では、首を動かすこともできなくなっていた。
「中村さん、初めて会った雨の日なんですが。」
室生はポツリと呟いた。
「私、バスを降りて、ずっと、泣いていたんです。」
孝介は、閉じていた目を薄っすらと開けた。
「七尾で、やっと離婚の後片付けが終わって、戻って来て、バス停に来た時に、傘をあっちに忘れたことに気づいたんです。」
室生は、頭を孝介の体に乗せて、倒れ込んだ。
「前だったら、あっちに電話かけると、電話口で、色々怒鳴られて、取りに帰り来いって、言われるんですけど、もうそれもなくなったんだな。って。」
室生は、顔を右に向けて、孝介の顔を見上げるようになった。
「何年も何年も、いろんな事を言われ、正直、心が潰れてたんですね。あの雨の時も、こんな自分だから仕方ないのかなって思ってたんです。」
室生は、孝介の右手を握り直した。
「この集落に、知り合いもいないし、スマホ壊れてもいいから、濡れて帰るしかないかなって。そうしたら。」
室生は再び、顔を布団に押し当てた。
「そうしたら、中村さんが傘に入れてくれて。あんまりにも、自然に言うもんだから、涙、止まっちゃいまして。」
室生は、そう言うと、肩を揺らして笑い出した。
「だから、この集落で生きていける、きっかけも、関係づくりも、何もかも全部、あの日から始まったんです。だから、室生さんのおかげなんです。」
室生は、ぐっと孝介の右手を握り直した。
「ほやったんですね。」
孝介は、ポツリとつぶやいた。
「僕は、終いにするために、ここに戻ってきました。」
孝介は、薄く開いた目を少し室生の方に傾けた。
「病気は、治らないけど、遅く出来ると。だから、その間に、自分を終いにしようと。」
孝介は、首を戻して、天井を見た。
「で、ここに来たら、ここでも、やることあって、協力して。」
孝介は、うっすら開いていた目を閉じた。
孝介は、少し黙り込んだ。喋らない時間が長かったので、室生が孝介の顔を覗き込んだ。
「みんな、自分で、動き出せるように、なったから、区切った、と。思いました。」
孝介は、自分の顔を覗き込んでいる室生の顔を、目を薄く開けて見た。
「でも、まだ、”仕舞って”なかったんですね。」
孝介は、そう言うと、室生の手を握り返した。
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年末は、病院の面会時間の変更があった。
親族や患者の世話をする人は、面会時間過ぎても居続けても良かった。
室生も、それに習い、孝介のそばに居続けた。
孝介が、目を薄っすらと開くと、夜中だった。
外からは、月明かりがほんのり差し込み、孝介にかぶさって寝ている室生の背中をぼんやりと映し出していた。
孝介の右手は、室生の両手にしっかりと握られていた。
孝介は、再び、天井をみた。
これで、よかったんだよな。全部。
孝介は、頭が後ろに沈んでいく感覚がした気がした。
孝介は、右手が握り直されている感覚がした。
「室生さん。」
室生は、ぼんやりと目を覚ました。
「どうしたんですか?」
「そんなにも、ひっついてると、看護師さん達に、勘違いされますよ。」
室生は、クスクス笑った。
「勘違いさせてください。今だけ。勘違いさせてください。」
室生は、耳を孝介の体に当てたまま、孝介の顔のある左側を向いた。
そして、室生は、孝介の右手を自分の右頬に押し当てた。
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病室は、音もなく、静まり返っていた。
静けさに起こる甲高い耳鳴りも、もう、孝介には感じられなかった。
もう、首の感覚も、何もかもなかった。
自分が膨れているという認識だけあった。
右手の指を動かしてみた。
かすかにうごいた。
だが、その指も、室生の両手に収まってた。
孝介は、表情を変えずに、笑った。
「あなたで、よかった。」
孝介は、ポツリと呟いた。
室生は、指が動いた感覚がして、うっすらと目を覚ました。
何か聞こえた気がした。
右手を握り返して、孝介の体に顔を押し当てた。
室生は、いつもと違う感覚に気づいた。
孝介の右手首に、指を押し当てた。
手を話すと、孝介の顎の下と首元に手を当てた。
顔を前に出し、左耳を孝介の口元に当てた。
室生は、確信し、孝介の左手にあるナースコールを押した。