ー第十五話ー 夏の盛りの空気 過ぎ去る夏の気配
夏も盛りになり、外は焼けるような空気に満ちて、合間に断片的にセミが鳴いていた。
今年の夏は、全国的に断片的に40度に迫る日が多く、比較的涼しい能登でも33度になるなど、かなり暑い夏になった。
暑さが30度を超えると、セミが鳴くのをやめるというのを、都会では幾度も経験していたが、まさか能登でも経験するとは、孝介も思っても見てなかった。
ただ、海が近いので、息が詰まるほどの暑さというのはなかった。
そういう意味で、海がある暑さ、という物は、それなりに過ごせた。
月に一度の、気が進まぬ定期診察のために、孝介は病院に来ていた。
いつもどおりの検査を終えて、医者のいる診察室に呼ばれて入った。
右足が動かない事について、病院に来る前に前もって伝えていたが、改めて伝えた。
医者は、ジッと数値をみて、各種画像を確認した。
「右足から次、腰全体に移ると思います。数値的には、前よりも進行してます。」
「わかりました。今までの生活、今まで通りじゃないと思いますけど、送れますか。」
孝介は、右足の膝をぐっと握った。
「浮腫の進行具合次第、ということになります。が」
医者は、カルテを手元に寄せた。
「前回もお話したように、中村さんの病気の進み具合は、他の同年代の方と比べてゆっくりです。もちろん、多くの患者さんはもっと年上の方ばかりなので、それと同じとはいきませんが、体を支える環境さえ作れれば、まだ今までと同じ生活を送れます。」
医者は、孝介をみて、軽くうなづいた。
「今まで通り、というわけにはもちろん行かないのはわかってるんですが、どのくらいすればいいですか。」
「そうですね、両足、車椅子になることを見越して、タイヤで動いてもいい状態を作るというのは必要かもしれません。」
「うちは畳なんですが、フローリングにリフォームってことですかね。」
「そうなりますが、そこは、介護が必要になった時に、ケアマネジャーさんに相談するということになりますね。」
一体、あの家をどう変えればいいんだ。孝介は正直不安になってきた。
「それと、すこし、今の話をしましょうか。」
「はい。」
孝介は、少しうなだれた背を、少し正した。
「松葉杖、大丈夫ですか?体に合ってますか?」
「松葉杖ですか。」
「はい、今しばらく、上半身に力が入る間は、ベッドから起き上がるにしても、少しの移動にしても、松葉杖かそれに近いものが必要でしょう。」
孝介は、納得してうなづいた。
「大丈夫です。畳に座ってる状態からの移動は、正直つらいですが、まだなんとか出来ます。」
医者は、あっとした表情をして孝介を見た。
「畳に座る生活をしてるんですね。ならば、手すりとか早めに付けられるようにしたほうがいいですね。その件は、こちらじゃ対応はできないですが。」
孝介は、再度、わかりました、と、医者にお辞儀をした。
診察が終わり、外に出た。
診察の後、病院から、松葉杖を借りることが出来た。
病院の二重の自動ドアが開くと、病院内と変わって、ムッとした空気が、孝介の顔にまとわりついた。
孝介は、病院に来る時は、いつも乗っているバスで来た。
帰りもバスに乗る予定だった。
バスが来る時間まで40分ぐらいある。
いっそのこと、病院ないで待ってたほうがいいんじゃないかと、そう思った。
「孝介、待っとったぞ。」
病院のターミナルで、見覚えのある赤い車が止まってた。
「あれ、なんで、じぃじゃ来とらん。」
孝介は、祖父の英吉のそばまで近寄った。
「用事あるんやなかったが?」
「終わった。だから、迎えに来てやったんやがいや。」
祖父の英吉は、にやっと笑った。
「で、なんでロードスターなん?」
「それで行っとったから。」
「クラウンやなかったん?」
「持ってくもん、なかったし。」(持っていくもの、なかったから。)
孝介は、祖父の英吉が乗ってきた赤いクーペをじっと見た。
「松葉杖、乗るが?」
「折りたたみの松葉杖やろ?たたみゃ乗る。」
祖父の英吉に促されるように孝介は助手席に乗った。
そして、松葉杖を折りたたんで車内に入れた。
「乗るもんやな。」
「せやろ。」
祖父の英吉はそう言うと、テンション高めに小走りで運転席に乗った。
「これで、3台目?車。」
「ぉん、3台目。」
「3月から知っとったけど、なんで買うたん?」
そう、孝介に言われて、祖父の英吉は少し黙った。
「・・・純介に、これがええぞ言われてな。」
祖父の英吉は苦笑いしながらそう言うと、車を出した。
今日は天気が良かった。
途中信号で停まった頃を見計らい、祖父の英吉は電動式の屋根を開けた。
「純介にな、こういうオープンカー乗ってもええがんやないか?って言われてな、買うたんや。」
走り出した車のフロントガラスから流れ落ちてくる適度な風が、頭から体に当たり続け、孝介は心地よかった。
病院から家に向かう国道は、海に近い所を走っており、時より横から夏の潮の香りを乗せた風が流れ込んできた。
「まあ、じぃじゃらしいって言えば、これが一番じぃじゃらしいわな。」
「やろ。なんにな、サーコが、お前んとこのかぁかが、”いい年こいて、なんて派手なもん買うたがいね。ばぁばおらんがんなって、だっか乗せる気でおらんかいね。”って言われてんな。」
(そうやろ?なのにな、サーコが、お前のお母が、”いい年して、なんて派手な物買うの。お母さんがいなくなったからって、誰か乗せる気でいるの?”っていわれてな。)
「まあ、そう思うわな。」
「お前もいうか。」
孝介の苦笑いの応えに、祖父の英吉は大声で笑った。
「でも、俺も乗っとるんがんやし、それでええがんやないの?」
「まぁなぁ。同じ二人乗りでも軽トラじゃ行きにくいとことかは、これで行っとるさかい、わしとしてはええんがやけどな。」
祖父の英吉は、漁協での漁の仕事以外にも、旧職の人脈が退職20年経ってもまだ続いていた。
旧職の会社の内容上、祖父の英吉は日本全国だけでなく、全世界を回っていた。
今でも、スマホで多くの世界中の知り合いとつながっていた。
その知り合いが、新幹線に乗って街に来ることがあると、その赤いクーペを飛ばし、さっそうと駆けつけていた。
そういう時、結構知り合いの受けがいいということを、祖父の英吉はこの5ヶ月で体験をした。
「うん、つくづく、じぃじゃ、75に見えんなぁって思うわ。」
「でもな、今の75は、みんな若いがんやぞ。」
「その、元気さが、正直信じられんわ。」
孝介は、そう言うと、海の方に視線をやった。
「この車って、乗っとらん、じぃじゃだけなん?」
祖父の孝介は、首を横に振った。
「いんや、純介がたまに乗る。」
「いつ?」
「わしが街に出た時、駐車場に預けんのが嫌やから、その間に純介が子供や嫁さんと乗ってドライブしとれん。」
「そら、俺しらんで当然やわ。」
祖父の英吉は、ニコニコしながら、アクセルを踏んだ。
「孝介も運転できりゃええんがにな。楽しいぞ。」
孝介は、前髪に直接風圧が当たるように、首を横に傾けた。
「まあ、3年前やったら、よかってん、げんけどな。」
祖父の英吉が運転する車は、バスのターミナルのある街まで戻ってきた。
「ちょいと、買いもんして、帰っぞいな。」
そう言うと、祖父の英吉は、車のハンドルを大きく切ってスーパーの駐車場に入った。
入り口から近い場所に車を止め、車の屋根を元に戻した。
「実はな、昼の用意、なんもしとらんがやわ。」
「ああ、昼飯買いに行かんなんがんね。」
孝介は、折りたたんだ松葉杖を組み、松葉杖に体重をかけて、車から降りた。
それを確認した祖父の英吉も降りて、車の鍵を閉めた。
祖父の英吉は、ゆっくり歩いてくる孝介の様子を見ながら、近くを歩いた。
孝介と祖父の英吉がスーパーの入り口につくと、年代物の自動ドアが重く低い音をたてて開いた。
孝介は、自動ドアが閉まらぬうちに早くと体を前にして歩いた。
祖父の英吉は、自動ドアが閉まらぬよう注意を払って、孝介の動きを見守った。
スーパーの中は、夏の野菜や大家族向けの商品で溢れていた。
普段にない品揃えになっていた。
大袋に入った野菜が野菜コーナーに大きく盛られ、店の奥に入るとバーベキューで使われるであろう海産物や肉が所狭しと、多く積まれていた。
更に奥にすすみ、惣菜コーナーまでやってくると、普段の弁当や小分けの惣菜が隅にやられ、オードブルや大人数用の寿司が目にとまるように多く並んでいた。
ちょっと帰省にしては早い時期だが、子どもたちは夏休みなので、早くに来ているのか。
それとも、ここで沢山買った後、海水浴場まで行ってみんなで食べてるのか。
孝介は、スーパーの商品からも、この時期の賑やかさを感じ取った。
二人は買い物を済ますと、もと来た自動ドアの方に戻っていった。
その時、孝介は今まであまり意識したことがなかったが、入り口のそばに、花や灯籠など墓参り必要なものが、大きく陳列されているのが目に止まった。
「じぃじゃ、これ」
孝介は、祖父の英吉に思わず尋ねた。
「ああ、墓参りのセットやな。」
「うち、こんなん買うとったっけ?」
「買うとったよ。でも、大体、純介とかあんか等が全部もって、お前、なぁん持たんかったしな。」
(買ってたよ、でも、大体、純介とか兄たちが全部持って、お前は、なんにも持たなかったな)
孝介は、墓参りのセットをじっとみた。
「今年も持てんでごめんな。」
「しゃあねえわ。孝介は、体言うこと聞かんがんやもんな。」
祖父の英吉はそう言うと、明るく笑った。
孝介は、今まで何度、これを見過ごしてきてしまったんだろうと思った。
今を盛りに勢いを増す夏を目の前にし、孝介は、その先に迫る秋の気配が、ゆっくりと自分の手元にまで流れてくるのを、じんわりと感じていた。