序:売れないバンドマン、村人Aに転生する。
使い込んだ傷だらけのギターの弦を張り替えながら、ふと、煙草を吸うのはもうやめようと思った。
世の禁煙ブームに乗って、とかではない。別段、身体の事を考えてるわけでもない。
単純に、高いのだ。
ただでさえ金がないというのに一箱500円以上する、生きていくのに必要のない物にもうお金を払いたくないなと思っただけだ。
どのみち惰性で吸っていた物だ。吸わないでいればそのうち辞められるだろう。
僕は弦を張り替えたギターをケースにしまった後、二本だけ残っていた煙草の箱をゴミ箱に放り込み、ため息をついた。
今日、またライブが一本、自粛と言う名の元にキャンセルになった。
二ヶ月前から感染者が激増している某ウイルスのせいで、日本政府から不要不急の外出や大人数での集会が禁止された。
近日中に緊急事態宣言の発令もあり得るというもっぱらの噂だ。
ライブハウスは本来、大勢の人が集まる所だ。
当然、そのあおりを受けまくっている。
いや、僕たちのバンドはそこまで大勢じゃないけれど。
おかげで先月から何本ライブのキャンセルがあっただろう、来月に演る予定だった東名阪を回るツアーも取りやめた。
僕らみたいな売れないバンドマンは、ライブが出来なければ収入が入ってこない。
そもそも、売れないバンドマンにはライブが出来ても収入にならない事も多い。ライブ会場や、演奏機材を借りる為にこちらからお金を出す為だ。
そして、チケットを売ってお客さんに来てもらい、そのチケット代を支払いに当てるのだ。当然ノルマもある。
ノルマが達成できなければ、バンドは赤字だ。
そして、さっき来た一通のメールで今月の僕らの収入がなくなった事を知らされた。
……もう、ダメかもしれないな。
バイトの給料が入るのもまだ先だ。今月の家賃が払えるかどうかも怪しい。他のメンバーのモチベーションも下がって来ているらしく、ドラム担当の奴が最近練習に来ない。ベース担当の奴は彼女を連れてきて、一緒に携帯ゲーム機で遊んでばかりいる。
ちなみにそのゲーム機は僕が一年前に貸した物だ。
息が詰まりそうになりながら、ギターを背負いスタジオに向かう。練習だけはしておこうと思った。
もうだめだと思う一方で、僕――嘉島浩樹――は往生際悪く、「いつかきっと」と微かな希望を捨てられないでいた。
そんなどんよりとした気分で、ぼーっと歩いていたのが不味かったらしい。
スタジオ前の交差点、信号は点滅を始めていた。気がつけば、目の前に車のフロントがスローモーションで迫ってくる。けたたましくクラクションが鳴るが、僕には為す術もない。
痛いとか、苦しいとかも良くわからない。車にはねられた僕の体は人形みたいに吹き飛んだ。ついでに意識も吹き飛んだ。
次に目を覚ましたのは病院のベッドでも家の布団でもなく、妙にフカフカして干し草みたいな匂いがするベッドだった。目だけを動かして周りを見渡す。
目の前には太い梁が横たわり、薄っすらとホコリをまとわせている。
「何処だよここ。」
そう声に出してつぶやいても誰も何も反応がない。
木造の薄汚れたこの家にはどうやら僕一人しか居ないようだ。
そっと体を起こして窓の外を見る。
外からは小鳥のさえずりと、更に遠くから牛の鳴き声が微かに聞こえる。
「どう考えても……東京じゃないよな」
ここが、剣と魔法のファンタジー世界だという事を理解するまでに、それから約一週間ほどかかった。