一章(5)
6/15 21:00改稿
そうして一ヶ月の月日が経った。
その間、クラリスは以前と変わらず、ぼんやりと日々を浪費していた。王女なのだからもっと頑張らないと、とは思うが、どうせ今更頑張ったところで誰も認めてくれないという諦観が心を占めていて、何をする気力もなかった。
事実、これまでがそうだったのだから。今後もそうなるに違いない。そう思っていた。
エッタは、何もなかったかのように振る舞ってくれた。以前も同じように明るく、時折軽口も混ぜて楽しく話す。彼女の優しさがとても温かくて、ルークのことなどもう忘れかけようとしていたころのことだった。
当のルークが戻って来たのは。
「王女殿下、お久しぶりでございます」
かつてと同じように自室で、クラリスはルークを迎え入れた。部屋に入るとすぐに彼は膝をつき、そう挨拶をする。その声色はどこか高めで、心なしか肌もつやつやしているように見えた。笑顔は完璧で、あまり関わったことがなくとも上機嫌なのが容易に窺える。
その理由がさっぱり検討もつかず、クラリスはとりあえず「久しぶりです」と、エッタの声を借りて返事をした。そもそもどうして彼が今更自分の元にやって来たのかすら皆目見当もつかない。
(父さまに怒られたのかしら? でも、さすがにこんなに時間がかかるわけないわよね……)
うーん、と心の中で唸ったが、結局結論が出ることはなくて。
少ししてクラリスは考えるのをきっぱり諦めると、エッタの手に字を書いていった。
――それで、今日は何の用でしょうか?
「何って……もちろん、教育係として今日から働くためですが。調査が終わったので。……手紙を送りましたよね?」
――確かに、来ましたけれど……
話の内容が見えなくて、クラリスはそっと視線をさまよわせた。ずっと、彼はもう教育係を辞めたと思っていたのだが、彼の発言からしてどうやら違っていたらしい。調査をしたいから休むというのは本当にそのままの意味で、教育係を辞めるという隠された意図は一切なかった……ということだろうか? 思わず首を傾げる。
対するルークも話の内容が見えていないのか、不思議そうな面持ちを浮かべていた。紫紺の瞳がまたたいている。
そのとき、「えーっと……」と、横に控えていたエッタが口を開いた。確認するように問いかける。
「つまりルーク様は教育係を辞めたいとは思ってなくて、本当に調べたいことがあったから、一ヶ月も休んでいた、と……?」
「はい、その通りです。――ああ、もしかして疑っておられたのでしょうか?」
その言葉に、クラリスは思わず視線を逸らした。まさにその通りで、彼のことを信じず、勝手に落ち込んだり怒ったりして……ひどく気まずかった。疑ってしまったことが申し訳ない。
返事はしなかったというかできなかったが、ルークは察したのだろう、「どうしてそのようにお思いになったのですか?」と尋ねてくる。
……少しためらって、クラリスはおずおずとエッタの手のひらに書いた。
――以前の人たちは、同じようなことを手紙で伝えて来て、それ以降来なかったから……
こんなこと伝えたって、疑ったことは許されないだろうけれど。そう思い、目をそっと伏せると、「王女殿下」とルークに呼ばれた。おそるおそる、彼のほうを見る。
彼はまっすぐこちらを見つめてきていた。
「どうして私が今までの人たちと同じことをすると思ったのでしょう? 過去は過去であって、似たような状況とはいえ、未来が同じようになるとは限りません」
息を呑んだ。確かに言われてみればその通りで、まさに目からウロコで、だからこそどうして気づかなかったのだろう、と思う。過去と未来は別物だ。同じ道をたどると決まっているわけではない。
つい呆然としてしまうと、「ですが、」とルークが口を開いた。
「連絡を怠ったのは私のミスですね。申し訳ありません。王都の外に出ていたものでして……」
慌てて我に返る。大丈夫です、と手のひらに書いて答えながら彼の言葉を反芻し、ふと気になることがあった。クラリスは首を傾げ、エッタの手のひらに質問を書く。
――王都の外って?
すると、ルークは途端に目をキラキラと輝かせた。わずかに頬が紅潮しているような気がする……というかしている。ぱぁ、と華やいだ雰囲気を醸し出していて、例えるならば……愛する人を見つけた令嬢、だろうか。とにかくそれくらい明るい雰囲気で、彼は楽しげに、幸せそうに、どこか恍惚とした様子で話し始めた。
「ええ、そうです。実はハルーシャという都市に行っておりまして、そこである商会の者たちから手話を学んでいたのです。商人の息子が、王女殿下とは少し違いますが、耳が聞こえず、話すこともできない人――聾唖者でして、そのためその商会では手話が使われていたのですよ。手話とは、簡単に言うなら身振り手振りでして――」
喋々と、興奮した様子で語り始めたルークに、クラリスは思わず呆然とする。彼の口から怒涛の勢いで溢れてくる言葉、言葉。今までの冷静な態度はどこに行った、と言ってやりたくなるほどその熾烈さは凄まじくて、口を挟む暇もなかった。
とりあえずまとめると、ルークは手話を学びに王都の外へ出ていたらしい。手話とは身振り手振りに似た単語と動作を結びつけたもので、これならば字を書くほど時間をかけることなく意思を伝えられるのだとか。
そこまで話してもルークの口は止まらない。ちょうど読んだ研究書にちらりと手話のことが書いてあって知っただとか、いろいろな伝手をたどって商会に行き着いただとか、商会での住み込み生活とか、様々なことを話してくる。今まで見たことがないくらい、生き生きとして。
ちらりとエッタをうかがえば、彼女は目をぱちくりさせて、ただ呆然と「はぁ……」と相づちを打つだけだった。そうなる気持ちはよくわかる、と、クラリスは心の中で同意する。
(なんか……いろいろと、すごいわよね……)
彼のことは冷静で、その分ほかの貴族のように冷徹な人物だと思っていたのだが、それが一気に覆された。一件常識人に見えるけれど、その実変な人、というレッテルをこっそり貼る。
そんなことを思いながら、しばらく黙って――というかあまりの勢いに止めることもできなくて聞いていれば、突然、ハッ、とルークが口を噤んだ。こちらを見て……状況を察したのか、「申し訳ありません」と、蚊の鳴くような声で告げる。
クラリスはそっと指を動かした。
――いいえ、大丈夫です。……とりあえず、あなたは手話を学んでいた。そしてそれを使えば……わたしも人並みに話せる、ということですか?
エッタがこちらを見た。その瞳には驚きと期待が色濃く現れている。どうやらようやっと、ルークが手話を学んだ理由に気づいたようだった。
クラリスの前で膝をつくルークは、「はい」と、きっぱり言う。
「できます。もちろん声で話すほどではありませんし、一から覚える必要はありますが、かなり便利になるはずです。全員が手話を学んでいるならば、複数人でも同時に会話できます」
――そう。
そっと、クラリスは口元をほころばせる。ずっと、ずっと羨ましがっていた令嬢たちのお茶会。みんなで話し合い、クスクスと笑う楽しげな光景。その場にいる全員が手話を知っている必要があるとはいえ、そのように会話ができるかもしれない、というのがひどく嬉しくて、胸が躍った。直そうとしても、自然と頬が緩まってしまうほどに。
「王女殿下」と、ルークに呼ばれた。
「まずは手話の勉強から始めたいと思います。私自身、まだ完璧ではございませんが……よろしいですか?」
――ええ、もちろん。そう言う代わりに、クラリスは満面の笑みで頷いた。