五章(6)
クラリスに自分を解任してくれ、と告げてそれが了承されて以来、ルークはオリオンの家に滞在していた。未だ王城勤めのままとはいえ急な解任で新しい部署が決まっておらず仕事がなかったため、どうせならこの期間に趣味の研究でもしようと思ったのだ。
……それに何かしていないといつだってクラリスの、あの最後の涙を思い出してしまい、自責の念に駆られてしまう。もっと何かいい伝え方があったのではないだろうか、もっと別の方法があったのではないだろうか。そんなことを考えてしまうから、それを振り払うためにひたすら研究に没頭していた。それこそ寝食も忘れて。
そうやってここ数日を過ごしてきたのだが、やはり休息のない生活は苦しく体は限界だったらしい。オリオンに言われて床に寝転がれば、固い床の感触など気にすることなくルークは即座に眠りに落ちていった。
次に目を覚ましたとき、目の前には細長いヘーゼルの瞳があった。「うわっ!」と思わず声を上げながら飛びのき、ルークはその人物を見つめる。見覚えのある……というか一週間くらい前にも会ったことのある国王の側近、ヘクターだった。彼はいつものようにほとんど表情を変えず、淡々とした様子でこちらを観察している。
ルークは自らの体を見下ろす。くたびれたシャツに、片側だけめくりあがったズボン。靴はいつの間にか部屋の隅に脱ぎ捨てられていた。今は確認することができないが、そういえばここ数日ヒゲを剃った記憶がないから少し伸びているだろうし、先ほどまで床で寝ていたから髪もボサボサだろう。明らかに国王の側近という貴人の前に出られるような姿ではなかった。
(やってしまったな……)
人生で何度目かの大失態に思わず頭を抱えたくなっていると、「ルーク・アドラン」と呼ばれた。冷淡な、どこか無気力さを感じさせるヘクターの声だ。彼のほうを見上げれば、「一度しか言いませんから」と言われる。つまりルークに何か用事があるから、こんな状況でもきちんと聞け、ということだろう。慌てて姿勢を正して頷けば、薄い唇がやけにのんびりとした動作で開かれる。
「国王陛下のご命令です。本日午後三時に城の応接室へ来てください。そこで王女殿下と話すことになる……かもしれないとのことです」
「…………は?」
ルークは相手が国王の側近という目上の人物であることなんか忘れて、ついそんな声を発してしまった。それくらい、ヘクターの話したことはあまりにも信じられないことだったのだ。ぽかん、としている間にヘクターは「ではこれで」と言うと、くるりと踵を返して部屋の出口へと向かう。咄嗟にルークは「待ってください!」と声をかけた。
ピタリと足が止まり、ヘーゼルの双眸が冷徹にこちらを射抜く。その冷たさに思わずごくりと唾を飲み込めば、ヘクターは「一度だけだと言ったはずです」と言って再度部屋から出ようとした。
その背に向かって、ルークは叫ぶ。
「いったいどういうことですか!? 私は、クラリス様に会わせる顔なんて…………ない、です……」
ぐっ、と手に力を込める。爪が手のひらに食い込み、鈍い痛みが走った。
ルークにクラリスと顔を合わせる資格なんて、ない。彼女のためとはいえ、あの晩、ルークは彼女を泣かせてしまったのだ。そんなことをしたこともかかわらず彼女と会うことは、ほかでもない自分が許せなかった。
そう思っていれば、ヘクターははぁ、と、わかりやすくため息をついた。
「先ほども言いましたが、これは国王陛下のご命令です。あなたに拒否権はありませんから」
「必ず来るように」と言ってヘクターは部屋を出ていく。パタリと閉じられた扉に、ルークはただ呆然としていることしかできなかった。
――クラリスと会う。そう思うと罪悪感や不安で胸がいっぱいで、ぐちゃぐちゃで、思考がまとまらなかった。
はぁ、とため息をついてその場に倒れ込む。国王の命令なのだから行かなければならないのだろう。それくらいは理解できているが、やはりどのような反応をされるのかと思うと恐ろしくて足がすくむ。
(それにしても……)
いったい何の用事なのだろう? そう思い、ルークはその場で首を傾げたのだった。
オリオンに呼び出しの件を告げて数日ぶりに身だしなみを整えると、ルークは徒歩で王城に向かった。どこの部署にも所属していないが一応王城勤めであるためすんなりと城の敷地内に入り、ルークは応接室へと向かう。どこの応接室とは言われていないが、王族の使う応接室は王城の奥のほうに固まって存在しているため、その区画へ向かうつもりだった。
その途中、あまりにも気が乗らなくて、ふらふらと何気なしに庭園へと足を踏み入れる。
庭園は、時折クラリスが訪れる場所だった。あまり部屋の外へ出ることのない彼女が、それでも何かに惹かれるようにしてたびたび訪れる場所。だからこそ、あちらこちらに彼女の面影が残っていて。
ルークはそっとため息をつく。まだ彼女と顔を合わせるのが恐ろしくて、応接室になんて行きたくなかった。どんな顔をすれば良いのかまったくわからないし、もし拒絶されたらと思うと不安で体が動かなくなりそうだった。
憂鬱だ。行きたくなんてない。このまま時が止まってしまえばいいのに。
そんなことを思ったときだった。
――チリン、と、どこからかベルの音が聞こえてきた。その独特の音は、何度も何度もルークが技術者と実験を重ねた、相手を不快にさせず、なおかつよく響くもので。
「……クラリス様?」
ルークは駆け出した。この音は確かクラリスがつけていたはずのベルの音だ。彼女は声を発することができないから、社交界デビューの少し前、緊急時に手話通訳を呼ぶ際に鳴らせと伝えて渡したもの。それが鳴らされたということは、つまり何か手話通訳が必要なことが起こった、ということで――
咄嗟にルークは「クラリス様!」と叫びながらあたりを見回す。走り、見渡し、また走り……ややあってなぜかベンチの上で横たわっている人物が腕を振り上げているのが視界に入った。その腕の先、ベンチに横たわっている人物からこぼれているのは、見覚えのある亜麻色の髪で――
それを理解した瞬間、ルークは肺の底から叫んだ。
「クラリス様っ!!」




