五章(3)
本日更新2話目
――明日の昼、温室に来てください。待っています。
たったそれだけ。手のひらよりも大きな紙に書かれていたのは、たったそれだけの言葉だった。
舞踏会後、クラリスは体を洗って寝る直前、侍女たちによって髪を整えられながら、エリオットからの手紙をぼんやりと眺めていた。真っ白な紙にぽつんと浮かぶ優美な文字たち。けれど――いやだからこそ、どこか威圧感を感じてしまい、自然とため息がこぼれた。
この時期だからおそらく、ルークのことについて何か言われるのだろう。そう言えば去年の秋、母が開いた茶会でエリオットは彼のことをすごく褒めていたから、そんな彼を解任したことをなじられるかもしれない。はたまたお礼か。噂は聞かないものの、エリオットが今でもルークのことを気に入っているのならば、彼を自らの側近に取り立てていてもおかしくはないだろうし……
ため息をつき、クラリスはだらしなく椅子の背にもたれかかった。「クラリス様」と注意されたが、今日くらいは許してほしい。エリオットのことやルークのこと、最近やけに体に触れてくるようになったジェラードのこと、そして王位のこと。考えることがたくさんあって頭がおかしくなりそうだった。
そんなことを思いながらぼんやりと虚空を見つめていれば、髪を整え終わったらしく、侍女たちが離れていくのを気配だけで感じた。クラリスも椅子から立ち上がってぽすん、とベッドに寝転がる。誰もその行動を注意することはなく、「おやすみなさいませ」と言って部屋を出ていった。
パタン、と扉の閉じる音がすると、クラリスは横向きになり猫のように体を丸めて自らの体を抱きしめた。そっと瞼を閉じる。
――やはりこんなときでも、真っ先に脳裡に浮かぶのはルークのことだった。彼は今、何をしているのだろう? クラリスのことを少しでも考えてくれているのだろうか? そんなことばかり頭に浮かんでは消えて……
そして今夜も、クラリスは眠れない夜を過ごすことになるのだった。
翌日、クラリスは昼少し前に温室へと向かった。その時間になると昼食を摂るため、ほとんどの人は食堂などに行ったり城の外に出たりしているらしく、温室は閑散としている。
まるでジェラードと茶会をしたときのようだ、と思いながらクラリスは温室の中に足を踏み入れた。
あたりを軽く見回せば、温室の中央――かつて茶会のテーブルが置かれていた場所にエリオットが立っていた。クラリスと同じエメラルドの瞳が鋭くこちらを射抜いており、どきりと心臓が跳ねる。こんなに敵視するような視線を彼から向けられたのは、初めてだった。
恐怖で思わず足が震えそうになりながらも、クラリスは毅然とした態度を装ってエリオットの元に向かう。その間ずっと視線は外されることなく、クラリスの心臓も普段より早く鼓動を刻んでいて、じんわりと手汗が滲むのが感じられた。
目の前に立つと、エリオットはにこりと微笑む。けれどその視線は相変わらず敵意に満ちたもので。
「こんにちは、クラリス。……早速本題に入るけれど良いかい?」
――こんにちは、エリオット。……ええ、どうぞ。
エッタに通訳をしてもらって伝えれば、彼は「そうか」と言って表情を消す。その完全なる無表情に、彼のことをさらに恐ろしく感じながらも、クラリスは何とかそれを見せないようにしてにこりと作り笑いを浮かべた。
するとどうしてか、エリオットは顔を歪める。
「そういうのは今日はやめてくれないか? 君とは本音で話したい」
――…………わかったわ。
ふっ、と息をつくと、クラリスは笑顔をやめた。だけど感情があまり出ないように少しだけ無表情を意識する。
そうしてエリオットを見上げれば、彼はわずかに口角を上げていて満足そうだった。
「じゃあ訊くけど――君は僕の言ったことを忘れたの?」
――……どういうこと?
「そのままの意味だよ。君の社交界デビューのとき言ったよね? 君はもっと自分というものを持ったほうがいいって。望みを明確にすべきだって」
……確かにそんなことを言われていた気がする。うろ覚えで確証はないけれど。
そう思っていれば、エリオットの、感情を押し殺したような、不自然に凪いだ声が降ってきた。
「それで、これが君の望んだこと? ルーク・アドランをそばから外してあの第二王子と親しくすることが?」
クラリスは小さく首を振った。そんなわけない。ずっとずっと、ルークと一緒にいたかった。彼に、傍にいてほしかった。
だけど、それでも。
クラリスはゆったりとした動作で、ためらいがちに手話を編む。
――だけど、わたしは……わたしを支援してくれる人たちのために、ちゃんと王位を目指さないと……
「ふざけるな!」
クラリスの言葉をそのまま告げるエッタの声を遮るかのように、エリオットが怒鳴った。あまりのことにびくりと肩が跳ねる。おそるおそる彼のほうを見上げれば、普段は温厚なはずのエメラルドの瞳が苛烈に輝いていて。
初めて見る彼の様子に戸惑っている間も、彼は言葉を口にする。
「みんなのため? 王位はそんな生半可な覚悟で手に入れていいものではない! 王になるということは国民の命を全部背負って、自分の言動ひとつでこの国の命運が決まるという責任を負うということだ。そんな、ただ自分を支援してくれている人に対して申し訳ないから、とか、くだらないことで王を目指すとか語るなッ!」
そう言われて。クラリスは怒りをあらわにするエリオットを恐ろしく思いながらも、確かにその通りだと気づき目を見開いた。王とは国の代表、国の象徴。国民全員を導く存在であるのだから、クラリスのようにそんな中途半端な気持ちで王を目指すのは、本気で王を目指しているエリオットにとっては腹立たしいことなのだろう。
(わたしって、自分のことばかりなのよね……)
ふと、そんなことを思う。自分の気持ちに精一杯で、周囲を見る余裕がないのだ。こう言われたからこうしなきゃという強迫観念に襲われて、そのことに頭を占領されてしまい、今回このような行動をとった。もっと周囲を見れていれば、それは本気で王位を目指すエリオットの気持ちを愚弄するような行為だとわかったはずなのに。
そのことが情けなくて、恥ずかしい。今なら少しだけ冷静になって、そう思えるようになった。
だから、いやだからこそ――
――エリオット。
目の前の彼に呼びかける。彼はまだ怒りが収まっていない様子だったが、それも当然だった。彼にとってそれくらいのことを、クラリスはしてしまったのだから。
反省しつつ、クラリスは丁寧に手話を紡いだ。自分の気持ちを、手話だけでも伝えられるように。
――あのね、わたし……
そう伝えれば、エリオットはわずかに目を見開いたのち、「そっか」と言って破顔した。
「それが君の選択なら……僕は応援するよ」
彼の言葉に、クラリスは――ありがとう、と手を動かして伝えた。




