五章(1)
本日更新2話目
ゆるりと瞼を押し上げれば、いつもと変わらないベッドの天蓋が視界に映った。クラリスはのろのろとした動作で体を起こすと、あたりを見回す。空色のシーツに豪奢な絨毯、白い壁紙。サイドに置かれた小さなテーブルには、いつの間に用意されていたのだろう、水の入ったコップが置かれていた。
いつもと何も変わらない光景。
それでも――あの日を境に、一人の人間がクラリスの前から姿を消した。
クラリスはくしゃりと顔を歪めると、大の字に寝転んだ。柔らかな感触は体を受け止めてはくれても、心は受け止めてくれなくて。両腕で顔を覆い、目を閉じる。瞼の裏に、あの日の夜の光景が浮かび上がった。
――舞踏会のあと、貴族の屋敷から王城へと戻った。普段ならばルークは迷わずそのまま部屋へエスコートしてくれるのだが、その日は話したいことがあるからか、道を逸れて庭園へと歩みを進めた。おそらくそこで話をするのだろう。
昼間とは違い、どこか大人っぽい妖艶な雰囲気を漂わせる夜の庭園を興味深く眺めながら散策していると、しばらくして唐突にルークが立ち止まった。「こちらです」と言って彼が指し示す先には、木製の小さなベンチがあった。
彼が座る部分にそっとハンカチを広げると、クラリスはその上に座った。耳を澄ませばさわさわと揺れる梢の音がよく聞こえる。どこからか梟の鳴き声も聞こえてきて、少し落ち着いてきた。……どうやら気づかないうちに緊張してしまっていたらしい。
彼の言っていた「話したいこと」が、何なのかまったくわからなくて。
(わたし、何かしたかしら……?)
クラリスはそっと首を傾げる。彼と話すことなど特に何もなかったはずだ。今悩んでいるジェラードに言われたことだって結局はクラリスだけのことで、ルークは関係ないのだから。……いや彼の仕事のことだから関係あるかもしれないが、さすがに「あなたを解任しろ」と言われたとか当の本人に言えるはずなどないし、そもそもクラリスが彼と離れることが嫌なだけであって、本当はどうするのが正しいのかきちんとわかっている。それでも気持ちに踏ん切りがつかないのだから、クラリスの気持ちの問題で、ルークは関係ないのだ。
そっと目を伏せて思考に浸っていると、「クラリス様」とルークに呼ばれた。ハッ、と我に返って、自分は座ることなく地面に跪いている彼のほうを見れば、真剣な光を帯びた紫紺の瞳がこちらを見上げている。ほのかに月明かりに照らされたそこには、少々気難しげな顔をしたクラリスが映り込んでいた。
(あ、いけない)
よく感情を表に出さないよう言われているのだ。そうでなければこの社会では足をすくわれて大変なことになるから、と。それを思い出して慌てて表情を取り繕うと――なに? とクラリスは手話で尋ねた。
ルークは何か迷いがあるのかわずかに視線をさまよわせたのち、瞳を伏せ、そっと唇を震わせた。
「どうか、私を手話通訳から解任してください」
その言葉を耳にして。
――目の前が真っ暗になった。脳が理解することを拒む。それでも少しずつ、少しずつその言葉の意味を噛み砕いていって。
手が震えた。頭が真っ白になって、すぐに返事をしないといけないとわかっているのに手が動かず、そもそも何を言えばいいのかさっぱり検討もつかなくかった。胸の底からどっと溢れ出してきた感情がときに混ざり合い、ときに反発し合いながらぐるぐると渦巻く。
混乱の中、やっと出てきた言葉は端的なものだった。
――…………どうして?
どうしてそんなことを言うの? どうして? わたしのことを嫌いになったから? それとも……
そんなことを思っていると、ルークは「いえ、」と首を横に振る。その顔からは何の感情も読み取れず、彼が何を思っているのかクラリスにはまったくわからなかった。
あまりにも突然のことに呆然としたまま、しかし彼の話は続く。
「私が、もっと早く身を引くべきだったのです。私がそばにいては、クラリス様は王位に就くことができないでしょう。ですから……」
あらかじめ決めていたことを読み上げるかのように淡々と言葉を紡ぐルーク。
クラリスは彼の言葉をどこか離れた場所で起こっていることのように聞いていた。小説の中の出来事のような、自分とはまったく関係のないことのように。それくらい信じられない――いや、信じたくないことだったのだ。
ぼんやりと無表情の彼を見つめていると、ふと声が聞こえた。
――あいつを解放してやってください。
――わたしは、彼のことが大切です。だから少しだけ待ってください。
――……いつまででしょう?
――……彼が、辞めたいと言うまで。
ああ、と心の中で声を漏らした。そう言えば社交界デビューをしたときにオリオンとそんな会話をした。そのとき、彼は去り際に「おそらくその日はあまり遠くないと思いますよ」と言っていて……
もしかして、オリオンはすべてわかっていたのだろうか。ルークがそんなことを考えて、いずれクラリスの傍から身を引くだろうと予測していたのだろうか?
そのことにどうしてだか少し悔しくなりながら、しかし約束は約束。果たさなければならない。それに、こうしなければならないのだ。支援してくれる方たちのために、絶対に女王にならなければいけないのだから。だから、クラリスは――
――……わかったわ。あなたをわたしの手話通訳から解任します。
滲む視界。頬を、何か熱いものが伝った。
あの晩から三日が経った。たった三日。だけど――いやだからこそ、クラリスの胸の傷は、喪失感は未だに胸中に巣食っていて。
はぁ、とため息が自然にこぼれる。
――ルークの解任の手続きはすぐに受理され、翌日から彼はクラリスの元にやって来ることはなくなった。そのことは瞬く間に城中に広がり、使用人たちからも貴族たちからもこそこそと何やら言われている。が、クラリスはそれを聞こうとは一切思わなかった。どうせクラリスかルークの悪口だろうとは、簡単に予想できたから。
今回の件の発端となったジェラードの相手は、今もきちんと続けていた。けれどルークを解任した翌日、「英断ですよ」と舞踏会でダンスを踊りながらそっと囁いてきた彼の声が、今でも体にまとわりついていて、ふとしたときに考えてしまう。
……本当にそうなのだろうか? これが本当に正しいことなのだろうか? もっともっと他の手段があったはずでは……?
そんなことを思い、クラリスはふっ、と自嘲する。もう三日も経ったのに、未だに未練がましくルークをそばに戻そうと理由を探している自分が、ひどく情けなかった。
そのとき、寝室の扉が静かに叩かれる。「クラリス様、お目覚めの時間です」と、エッタの声。起きている、という返事の代わりにパン、と手を叩けば、すぐに扉が開けられて、エッタが数人の侍女を率いて部屋に入ってきた。彼女らの手には今日の衣装やメイク道具があり、着替えるための準備が整っていた。
クラリスは重たい体をゆっくりと起こし、ベッドからおりる。そして今日もまた始まる一日のことを思い、憂鬱なため息を漏らすのだった。




