四章(6)
ジェラードが来てからクラリスの生活は一変した。
今まではほとんどの時間を部屋に引きこもって勉強や趣味に費やしていたのだが、ジェラードを案内するのは王女であるクラリスの役目だ。必然的に舞踏会などに参加して社交をする必要が出てきたため、ほとんど毎日のように舞踏会に参加することとなった。
そして早くも四日目。クラリスはシュペリア公爵主催の舞踏会から戻って来ると、そのままベッドに倒れ込んだ。そのまま眠ろうとすれば、「クラリス様!」とエッタに体を起こされる。
「まだ寝てはいけません! 着替えをしてから湯浴みですよ!」
――わかってるわよ。でも疲れたのだから寝させて……
「い、け、ま、せ、ん! そんなことをしたら大変なことになります」
そう言いながらエッタはクラリスを起こし、ほかの侍女とともに無理やり湯浴みをさせた。それが終わり、タオルで全身を拭かれてうつらうつらとしながら、クラリスはぼんやりと思う。
(本当に疲れるのよね……もうめんどくさい……)
はぁ、と、自然とため息がこぼれた。
正直、クラリスがついて行く必要はほとんどない。ジェラードは初日にでも伝手を作っていたのか、すでに多くの貴族と顔見知りで、むしろクラリスのほうが彼に自国の貴族を紹介されるような情けない状態だった。
しかも紹介される貴族は派閥こそバラバラなものの、毎回「こんなのではたして女王となれますかね?」とか「女王となるためにもっと頑張ってください!」とか、そんなことを遠回しに言われる。それが、まだきちんと女王となる決心のついていないクラリスには重たくて……
(憂鬱……)
今までずっと社交をサボり、伝手を作らず、しかも王位を継承することもきちんと考えてこなかったのだから、自業自得とは言えるが。それでもこれからあと一週間以上もこの生活が続くのだと思うとひどく気分が重たくて。
クラリスはまたもや盛大なため息をつき、髪をタオルで丁寧に拭かれながら目を閉じ、ゆっくりと眠りの世界へ落ちていった。
翌日はジェラードからお茶会の誘いを受け、昼食後、クラリスはエッタとともに温室へと向かった。今回の茶会は男子禁制ではないものの、先日の夜会で受諾し今度参加することになったレティーシャ主催の茶会は、おそらく男子禁制。ルークは連れて行けないため、エッタがきちんと手話通訳として仕事ができるよう、今回の茶会を練習場所としたのだ。「こっちのほうが緊張します!」と当のエッタは言っていたけれど。
(だけど、目上の人とお茶会の機会なんてないもの……。いい機会なのよ、たぶん)
そんなことを思いながら、クラリスは温室までの道のりを進む。もう間もなく初夏で、庭園もその様相を少しずつ変え始めていた。お気に入りの場所などに行けばいつの間にか別の花が瑞々しく咲き誇っていることがままあり、それを見つけるのも最近の楽しみになっていた。
やがてガラス張りの建物が見えてくる。キラキラと陽光を受けて輝いている温室は庭園の一角にあり、いつもならば城の見学に来たほかの令嬢たちだって自由に入れるのだが、今日ばかりはさすがに入室が規制されていた。クラリスはエッタに取り次ぎを頼み、許可を得て温室に足を踏み入れる。
多くの花々が咲いていて、この地方では見かけない珍しい花もあった。人を避けてあまり入ったことがないため心の中で歓声を上げながら、とりあえずは中心へと向かう。
そこにはすでにジェラードがいて、にっこりと微笑んでいた。「こんにちは」と呼びかけられる。
――ごきげんよう、ジェラード様。お待たせしてしまい申し訳ありません。
「大丈夫ですよ、私だって来たばかりですから」
彼はそう言って首を小さく横に振ると、「どうぞ」と相変わらずにこにことした様子で椅子を勧めてきた。それに礼を言い、クラリスは背筋の伸びた美しい姿勢になるよう意識して腰掛ける。目の前にあった空っぽのティーカップに侍女が紅茶を注いだ。それを横目に、――本日はお招きいただきありがとうございます、とジェラードに告げ、会話を始める。
時折紅茶を飲んで緊張をほぐしながらそうしていると、「それにしても、」とジェラードが言った。
「こうして二人きりで話すのはお久しぶりですね。ただあれはダンスのときでクラリス様は話せませんでしたから……本当の意味では初めてかもしれません」
――そうですね。……あのときは返事をすることができず、申し訳ありません。
そう言えば、ジェラードの碧の瞳がきらりと輝いた。まるで夜闇に潜む蛇のような瞳にどきりとすして、動揺したことを彼に察せられないよう、きゅ、と、机の下で手を握りしめる。
相変わらず彼はクラリスを、獲物を見るような目で見つめてきていた。そのたびに恐怖が足元から這い上がってきて恐ろしくなり、その場から逃げ出したくなる。賓客である彼に対してそんなことできやしないのだが、もしクラリスが一貴族の令嬢で彼と接する義務がなかったならば、迷わずそうしていただろう。そう思ってしまうほど、クラリスは彼を恐れていたのだ。
作り笑いをなんとかして維持しながら、ゆったりとした動作でティーカップを口元に運んで心を落ち着ける。……当たり前のことだが対面に座っているため、その間もずっとジェラードに見つめられていて結局落ち着かなかったが。
と、そのとき、ジェラードが口を開いた。
「では、あのときの質問の回答を頂けますか?」
紅茶をこぼさないよう意識しながら、ティーカップを置く。動揺が表れたのか少しだけカチャ、と音が鳴ってしまった。
あのときの質問――王位に就くつもりなのか、というものだろう。ため息をつきたいのをこらえ、クラリスは感情が表に出てしまわないよう、より一層笑みを深める。
……王位のことなんて一切考えていなかった。この数日の忙しさにかまけて――いやそれを言い訳にして、考えないようにしてきた。そんなこと、考えたくなくて。未来のことなんて考えたくなくて。
ずっと――子供のまま、ルークとエッタがいて、父と母がいて、そんな穏やかな生活を送ることができたらいいのに。
そう思いながら、クラリスは手を上げて動かす。
――ここでは言えないです。
「……確かにそうですね。――では、私とクラリス様と手話通訳の侍女以外は温室から出てください」
ジェラードのその言葉に、クラリスは思わず目を見開いた。ごまかすための言葉だったのに、まだ心が決まっていないのに、彼はクラリスの意志を聞くためにほかの者に出て行くよう指示したのだ。……これはいったい、どうすれば……
「かしこまりました」と言って使用人たちは去っていく。温室の扉が閉じる音がすると、ジェラードは笑みを深めた。
いつもと同じの、蛇のような双眸だった。




