四章(2)
三週間後、クラリスは大広間で両親の隣に座り、ラウウィスの第二王子がやって来るのを待っていた。
部屋の両脇には有力貴族や高官らが控えており、口々に噂話をしている。曰く、第二王子は優秀だが王太子がすでに決まっているため王位につけないだとか、すでに想い人がいるらしく父王の決めた縁談には頷かない、とか。もしこの場に貴族令嬢たちがいたならば、「一途な人って素敵!」とうっとりしながら王子の登場を今か今かと心待ちにしていたに違いない。
そんな光景を眺めながら、しかしクラリスの意識は別のところに向いていた。
背後、手話通訳として控えているルークだ。何気ない様子で彼を視界に収め、その何の感情も読み取れない無表情に落胆する。
彼に異変が起き始めたのはいつだったか。とにかくラウウィスの王子の訪問が決まって少ししてから、彼はどことなく硬くなり始めた。感情をあまり表に出すことなく、講義の時間もただ淡々と教えるのみ。彼のことだからクラリスのことを慮って経験談も話してくれるだろう、と勝手に思っていたのだが、それもなかった。
そのことを訝しみ、けれど何もできずにいる間に時は過ぎ、とうとう今日を迎えてしまった。クラリスは心の中でそっとため息をつく。彼のことはもちろん心配だ。けれど彼はクラリスに対して完全に心を開いたわけではなく、教えてくれないことも多い。そのため――どうしたの? と尋ねたところで拒絶される可能性が高かったのだ。
それが、怖い。突き放され、迷惑だと思われるなんて、嫌。だから何もできずに――いや、何もせずにいて……
と、そんなことを思っていたときだった。扉が開かれ、高らかにラウウィスの第二王子の到着が告げられる。クラリスは姿勢を改めて正し、真正面にある入り口を見た。
そこから入ってきた一団の先頭にいたのは、クラリスよりも二、三歳ほど年上の青年だった。とろりとした金髪に碧の瞳。その色合いはシャールフの王族に似ていながらも、やはり国が違うからだろうか、どこか醸し出す雰囲気が違っていた。
彼――おそらくラウウィスの第二王子は堂々とした歩きで父の前にやって来ると、「お初にお目にかかります――」と流暢なシャールフの言葉で話し始めた。
「ラウウィス王国第二王子、ジェラード・ラウウィスと申します。シャールフ国王陛下におかれましてはご機嫌麗しく――」
滔々と語り始めた第二王子――ジェラードに、クラリスは言いようのない不安を覚えた。理由はわからない。それでも何となく、底知れない恐怖がすぐそこまで迫っているように感じた。
長ったらしい挨拶を終えると、ジェラードはそっと視線を滑らせ、ちらりとクラリスのほうを見る。
その、顔は。
笑っているはずなのに鋭く、絡みつくような視線で、ぞくりと背筋を悪寒が伝った。思わずきゅ、と、手を握りしめる。ただただ恐ろしくて、不安を感じて、公式の場であるにもかかわらずドレスにシワができることなど気にしてられなかった。
ジェラードはすぐに何事もなかったかのように顔を逸らすと、父との会話に戻る。先ほどまでと何も変わらない、形式通りの言葉たち。だけど一瞬見つめられ、クラリスは気づいた。
――ジェラードは会話しながらも、意識をこちらへ向けている。まるで獲物を狙う蛇のように。
だから不安を、恐怖を感じたのだ。たとえこちらに視線を向けていなくとも、常に狙われ続けているから。
ごくりと唾を呑み込んだ。一見和やかな場だが、その実まったくそうではなくて。
ジェラードが退出するまでの間、クラリスは笑みを取り繕っているだけで精一杯だった。
一旦自室へ戻ると、クラリスは息をつきながら寝室のベッドに倒れ込んだ。エッタが「クラリス様!」と注意をしてくるが、そんなこと気にしてられない。ただ立っていただけなのに疲労困憊で、これからのことを思うと憂鬱だった。
(あんな人と、なるべくいないといけないなんて……)
今でもありありと思い起こされる鋭い碧の双眸。絡みつくような粘度の高い視線。クラリスは思わず横を向き、自らの身体を掻き抱いた。「ああ!」と落胆するかのような誰かの声が聞こえたけれど、今更そちらを見ようとはせず、ぎゅっと目を瞑る。
恐怖が、足元から這い上がってきていた。
と、そのとき。
「もう、クラリス様!」
声とともに頭を軽く叩かれた。思わず瞼を押し上げれば、エッタが目をつり上げて怒りをあらわにしていて、クラリスは息を呑む。彼女がこんなふうに自分に対して声を荒らげるなんて、初めてだった。落ち込んでいたりしたときだっていつもそっと優しく、柔らかに寄り添ってくれていたから、意外で……
目を見開いていると、エッタは先ほどとは打って変わってにこりと笑った。
「何があったのかわかりませんけれど、元気出してください。ほら、笑ってくださいな。笑っていると、自然と気持ちも上向くのですよ」
クラリスは目を瞬かせた。……笑う。戸惑いながらも意識して口角を上げれば、「そう、それです!」とエッタが言った。
「ほら、楽しくなってきたでしょう?」
そう告げるエッタの顔は明るく、楽しげで、自然と胸が温かくなり、クラリスも笑みをこぼしてしまっていた。頬を緩めながらそっと体を起こし、手を動かす。
――そうね。
手話を読み取って、エッタはニッコリと笑いつつ「さて」と口を開いた。
「髪型もドレスも崩れてしまいましたね。早く整えましょう。歓迎のための舞踏会に間に合わなくなってしまいます」
――……ごめんなさい、こんなことにしてしまって。
クラリスはそっと目を伏せた。感情に任せてベッドに寝転がってしまったけれど、そんなこと本来許されるはずがない。ドレスだって一着一着が高価なのだし、髪型も侍女たちが丁寧に、時間をかけて整えてくれている。それなのにこんなことで台なしにしてしまって、申し訳なかった。
エッタは「大丈夫ですよ」と言う。
「また整えればいいだけですから。……さ、着替えますよ」
――お願いね。
「はい」
クラリスは口元を緩めてベッドからおりた。そっと目を閉じる。
……まだ、少し怖い。それでもエッタの言葉に勇気づけられて、なんとか大丈夫そうだった。




