三章(9)
レティーシャの背が遠ざかっていく。やがて人混みに紛れて見えなくなると、「クラリス様」と、ルークに声をかけられた。つられて彼のほうを見上げれば、にっこりとした笑顔とぶつかる。……だけど目は笑っていなくて。
何かやらかしてしまっただろうか、と思っていると、ルークがため息混じりに言った。
「確かにウィルター侯爵令嬢はクラリス様の派閥ですが、ご友人にするにはきちんと調べてからではなりません。そう申しあげましたよね?」
にこにこと笑いながらも厳しい言葉を向けてくるルークに、クラリスは思わずむっとした。それは何度も言われたからわかっている。
――だからあなたに確認したんじゃない。ウィルター侯爵家って確か私の派閥の中でも上位だったから、調べはついているでしょう? それならダメならダメって、何とかして伝えてくれるでしょうし。
「まぁ、そうですけど……」
ルークは不本意そうな表情を浮かべてわずかに視線をさまよわせた。どこか戸惑っているようにも見えて、クラリス首を傾げる。そんなふうに思う理由がよくわからなかった。
やがて彼は小さく息をつくと、「とにかく」と言う。
「私は手話通訳です。このような場ではあまりアテにはしないでください。ただの道具なのですから」
その言葉に苛立ちが湧き上がり、クラリスは衝動的に手を動かした。
――あなたは道具なんかじゃないわ。私の大切な人よ。そんなふうに言わないで。
ルークはわずかに目を見開いて、……そしてふっ、と微笑んだ。心の底から嬉しいと思っているのが容易に窺える表情で、それを見た途端、一際強くクラリスの心臓が脈打った。全身をぐるぐると血液が回る。どうしてだか彼の表情から目が離せなくて、体中が熱くて……
「ありがとうございます」と、ルークははにかみながら言った。その声にハッ、と我に返り、クラリスは慌てて手を動かした。
――そ、そう。
……沈黙がおりた。いつもとは違ってどこか少しだけ気まずい静寂。どう話しかければ良いのかわからなくてクラリスが戸惑っていると、少ししてどこからか鐘の音が届いた。――夜の十二時。舞踏会が終わる時刻だ。
その音を聞きながら、長かった、とクラリスは思う。たった数時間舞踏会に参加しただけ。それなのにどっと疲れが押し寄せてきて、まだ会場にいるにもかかわらずその場に座り込みたくなった。ふぅ、と、自然と息をつく。
そのとき「クラリス様」とルークに厳しい声で呼びかけられ、慌てて姿勢を正した。が、もうすでに集中力は途切れてしまっており、瞼が落ちかける。こんな時間まで起きていたことなどなくて、しかも慣れない社交で疲れてしまったことも相まって、ひどく眠たかった。
それでもルークに言われてなんとか王族らしく両親の元へ向かう。父が舞踏会終了の挨拶をしているのをどこか遠くに聞きながら、クラリスはぼんやりとしていた。きちんと笑顔を浮かべられているのかすら、自分で判別つかなかった。
その後両親と会話することもなくクラリスは部屋へと戻り、ベッドに倒れ込んだ。エッタが「ドレスがダメになってしまいます!」と大声で叫んだため、しぶしぶ今にも眠りに落ちそうな体を叱咤して着替え、体を洗う。そしてぼんやりとしたままネグリジェをまとうとそのままベッドに寝転がり――すぐさまクラリスの意識は眠りの底へと落ちていった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
同時刻。ルークはオリオンの屋敷にある客室のひとつでベッドに寝転がっていた。舞踏会の際に着ていた燕尾服はすでに脱いでおり、寝間着をまとっている。仰向けになりながらぼんやりと天井を眺めていた。
脳裏に明滅するのは先ほどまでの舞踏会のできごと。久しぶりに参加したそれは、正直あまり肌に合わなかった。自分が生きたい世界はここではない、こんな世界から逃げ出したい、と思ってしまう。
それでも――ルークはここで生き続けるしかないのだ。オリオンやニール、学院時代の友人たちと同じ舞台にいるには、研究をしていくだけではダメだ。ルークはすでに家を勘当されていて生粋の貴族とは言いがたいのだから、生活費も研究費も自分で稼がなければならない。
はぁ、とため息が漏れる。ふと、今日久しぶりに会った家族との会話が脳裏で反芻された。
――何をやってくれるんだ! おまえのせいで我が家がそっちの派閥に繋がっていると思われたらどうしてくれる!
――……私はすでに勘当されているのですから関係ないでしょう?
――それでもだ! しかも以前は要職に就くつもりはないと言っておきながら、今はそんな地位にあるなんてな……!
ふっ、と嗤う。父は憎しみのこもった瞳でこちらを睨みつけていた。どうやら勘当した息子が自分よりも上の地位にいるのが許せないらしい。
腕で顔を覆う。あまり好かれていないとは、昔からわかっていた。自分の思い通りにならず、しかも無駄だと思えるような研究ばかりしてて、城でそれなりの地位に登りつめようともしないルークに苛立っているのは、昔から知っていた。だけど、それでも、一番長い時を過ごした家族に憎しみを向けられるのは苦しくて……
――だからあなたに確認したんじゃない。ウィルター侯爵家って確か私の派閥の中でも上位だったから、調べはついているでしょう? それならダメならダメって、何とかして伝えてくれるでしょうし。
――あなたは道具なんかじゃないわ。私の大切な人よ。そんなふうに言わないで。
クラリスの言葉が思い起こされた。そのときの真摯なエメラルドの双眸が暗闇の中浮かび上がる。
ルークは思わず口元をほころばせた。温かで柔らかな気持ちが胸を満たし、充足感を与える。ごろりと寝返りを打って横を向き、体を丸めた。
それら言葉を聞いたとき、自分がどれだけ嬉しかったか、喜ばしかったか、彼女は知っているのだろうか。家族にさえ厭わしいと思われ、大切にされてこなかった自分にそう言ってくれて。絶大な信頼を向けてくれて。
ルークは彼女に救われたのだ。
そっと瞼を閉じ、眠りに身を落とす。多幸福感が胸を満たしていた。
これで三章は終わりです。
リアルの事情でしばらく更新休ませていただきます、すみません。




