三章(8)
ルークはそっと息をつくと「すみません」と謝ってきた。
「私の〝自称〟ライバルが失礼しました」
――まぁ、別に大丈夫よ。ルークがあんなにため息をつくの初めて見たし。
そう言えば、ルークはまたもやため息をついた。「本当にあいつは……」と呟いているあたり、どうやらニールに呆れているらしい。子供らしい態度に少しだけ口元を緩めながら、クラリスは手話の続きを編む。
――それにしても、ルークは愛されているわよね。ニールもあなたのこと誇らしそうにしていたし、オリオンだって……
そこで、手が止まる。またもやオリオンに言われたことを思い出したのだ。ルークのことを本当に大切に思っているのならば、離れるべきという言葉。正論だとはわかっているけれど、やはりそれはクラリスには苦しくて……
途中で手の動きが止まったのを訝しんだのか、「クラリス様?」とルークが尋ねてくる。顔を上げれば、彼の美しい紫紺の双眸とぶつかった。シャンデリアの光を受け、アメジストのようにきらきらと輝く瞳。透き通った、純粋な――
クラリスは無理に笑みを浮かべて――何でもないわ、と告げた。本当に、何でもない。ただクラリスの決意が足りないだけで、それ以外の何ものでもないから、ルークに伝える必要など一切ないのだ。
そう思ったがそれをどこか寂しく感じ、ツキリと胸が痛む。そんな資格などないのに。
そのときだった。再度「クラリス様」と呼ばれてつられてそちらを向けば、ルークが真剣な眼差しでこちらを見つめていた。どきりと心臓が跳ねる。
ゆっくりと、唇が動いた。
「今は、何も聞きません。ですが――いつか、心の整理がついたら話してください」
その言葉にどうしてだか目の奥が熱くなって。
――ええ、わかったわ。
クラリスはなんとかそれをこらえ、笑みを浮かべたのだった。
賑わっていた舞踏会も徐々に終幕へと向かう。
ルークとの会話以降、クラリスは何人かの人物と会話をした。話の合間合間にこの人はこんな人、と教えてくれたルークによると、どうやら話しかけてきたのはクラリスの派閥に属する者ばかりらしい。それも派閥の中でそれなりの権力を持っている人たちで、皆一様にこれからしっかりと仲良くしていこう、という話の内容だった。
とりあえず自分の派閥だからとクラリスは笑顔で頷いて、それで終わりだ。大した話をすることはなく、彼らはほかの者たちにも挨拶をしに行く。おそらく顔を覚えてもらうことが主な目的だろうが、もう少し上手くやってはどうなのか、と思ってしまうものだ。そういう態度を見るとちょっと印象が悪くなる。
話しかけてくる人たちもいなくなって休憩がてら会場全体をぼんやりと眺めていると、「王女殿下」と呼ばれた。姿勢を正してそちらを見れば、長く繊細な銀髪を持つ少女がいた。その姿に既視感を覚え、すぐに気づく。――先ほど、庭園で男性に抵抗していた少女だ。遠目だったため気づかなかったもののかなりの美少女で、その髪にはクラリスと同じように今回社交界デビューする者の証である白い花のバレッタがあった。肌は白く全体的に細くて、儚げな雰囲気を漂わせている。
クラリスが彼女のほうを見れば、彼女はほっと息をついた。その際に伏せられたあたかも深海のような深く濃い青の瞳は美しくて。
彼女はドレスを軽く持ち上げると淑女の礼をした。
「お初にお目にかかります……は少し違うような気がしますが、はじめまして、王女殿下。わたくし、レティーシャ・ウィルターと申します。先ほどは助けていただきありがとうございました」
その声もまた美しいもので、クラリスは思わず聞き惚れながらも、ゆっくりと手を動かす。
――はじめまして、レティーシャ様。別に先ほどのことは気にしなくてもいいわ。わたしが無視できなかっただけだから。
「それでも助けられたのは事実です。どんなお礼をすれば良いのか……」
瞳が銀色のまつげに覆われる。きゅ、と握りしめられた手は自らを追い詰めているようにも見え、どこか痛々しかった。
クラリスはそっと視線をさまよわせる。クラリスは本当に無視できなかったからエッタに命じて声を上げさせただけだし、ほとんど何もやってない。お礼を言われる筋合いはなかった。そう説得したかったが、普通にやってはおそらく彼女は納得しないだろう。そう思えてなんとか彼女を宥める方法を探したが……
(ど、どうすれば良いのかしら……?)
何も思い浮かばなくて。結局、クラリスはルークに助けを求めるために彼のほうをむいた。視線が絡み合う。紫紺の瞳には、焦っているのがありありとわかるクラリスが映り込んでいた。それを見てあまり感情を見せてはいけないと慌てて口元を固く結び、ルークに視線で促す。彼は小さく頷き、「ウィルター侯爵令嬢」と呼びかけた。
呼ばれたレティーシャはわずかに首を傾げる。さらりと銀糸の髪が揺れ、白い肌にかかった。
ルークが口を開く。
「差し出がましいことですが、クラリス様ももう良いとおっしゃっております。これ以上は……」
「ですが、それではわたくしが納得できません」
レティーシャは目を伏せ、しかしきっぱりと言い放った。そのことから何かしたい、という意気込みは窺えるし、そうしないと落ち着かないのはわかるが……正直戸惑う。そのまま何事もなかったかのようにしてほしい。
「クラリス様」とルークが小声で呼びかけてきた。どうやら彼も説得する材料がないらしく、小さく首を振る。もしくは思いついていたとしても彼の立場からは言えないことなのか。
と、そんなことを考えて現実逃避したが、何かを感じ取ったのかルークの視線が鋭くなったため大人しく真面目に考える。彼女のことからして、何かを頼んだほうが良いだろう。しかしそれをどんなものにすべきか、が問題点だ。あまり負担の大きいものだと申し訳ない気持ちになってしまうからそれは除外して、簡単にできるもので、しかしあんまり負担の少ないものだと今度は彼女が嫌だと言いそうだからそれなりに負担のあるもの……
(何がいいのかしら……?)
確かルークは彼女に対して「ウィルター侯爵令嬢」と呼びかけていた。ウィルター侯爵は確か……クラリスの派閥である。
ふと、思いついた。だがしかしそれは頼んでも良いことなのか判別つかなくて、クラリスは――ルーク、と呼びかける。ルークは突然話しかけられたからか戸惑いつつ、「はい、何でしょう?」と返してきた。
――お友だちになっていただくのはどうかしら?
「……ああ、それは良いと思います」
わずかな沈黙ののち、ルークはそう言って頷いた。じゃあ、ということでクラリスはレティーシャににっこりと微笑みかけ、手を動かす。
――レティーシャ様、どうぞわたしと友だちになってください。
ルークがその言葉を通訳する。レティーシャは目を見開き、……そしてわずかに口元をほころばせて頷いた。




