三章(6)
「クラリス様……」
エッタがそっと、呟くように呼びかけてきた。そちらに視線をやれば、彼女はどこか苦しげな表情を浮かべている。
クラリスは無理に口角を上げると、言った。
――内緒にしてね。
誰に対してなのかは、明言せずともわかるだろう。事実エッタはくしゃりと顔を歪め、大きく頷いた。「かしこまりました」という声はいつもより明らかに弱々しく、嫌なところを見せてしまったと申し訳なくなる。彼女がいなければ何も伝えられなかったから仕方ないとはいえ……もう少し言い回しを考えて会話の内容が理解できないようにすべきだった、と後悔しつつ、クラリスは手を動かした。
――バルコニーへ行きましょう。
「はい、わかりました」
エッタが頷くのを見て、クラリスは歩き出す。ドレスの裾をさばきながらゆっくりと進んでいれば、まったく意識をしていなかった、周囲の人の声がふと耳に届いた。
「あれが王女殿下? ……なんだか普通ね」
悪意を含んだ声に、思わずきゅ、と手を握りしめた。どうせ知らない人だ、こんな言葉は無視しても良いだろう。そう自らに言い聞かせるが、不思議なことにひとつ聞こえてしまうと、似たような悪意のある噂話がどんどん耳に届くようになって。
「みすぼらしい。エリオット様のほうが美しいわね」
「先ほどのを見たか? 本当に喋れないそうだぞ」
「ああ。――どちらにつくか考えなければな」
クスクス、という笑い声に、クラリスを値踏みする冷徹な視線、会話。それらをなんとか意識の外に追いやろうとするが、一度意識してしまっただろうか、次々と言葉が鼓膜を震わせ、恐怖が身を震わせる。
それらを振り払うように、クラリスは歩みを早めた。早くこの場から離れてしまいたい。怖くて、恐ろしくて、心臓がドクドクと強く体を内側から揺らしていた。
なんとか表情を崩さないよう、きゅ、と口元を引き締めてバルコニーへ向かう。人混みから離れ、エッタの開けてくれた扉から外に出ると、ほっと息をついた。
ずっといたため気づかなかったのか、どうやら大広間はかなり熱気がこもっていたらしい。冷たい夜風が柔らかく肌を滑るのが心地よく、そっと目を閉じた。体内の熱が、先ほどまで感じていた恐怖とともに体から消え去っていく。
ふぅ、と息をつき、クラリスはカツ、とヒールを鳴らしてバルコニーのふちへ近寄った。
夜の街並みがそこには広がっていた。夜空に浮かぶ星のように煌々と輝く家々の明かりは、手前にいくほど多く、遠くにいけばいくほどまばらになっていっている。おそらく遠さがるほどお金のない、平民の居住区になるからだろう。彼らは貴族のように蝋燭をたくさん使えるほど潤沢な資金はないのだ。
ぼんやりとそれらを眺めていると、少しずつ心が落ち着いていく。目を閉じれば瞼の裏にオリオンとルークの顔が浮かび上がり、胸が苦しくなった。
……約束をしてしまった。ルークが辞めたいと言うのならば、それを認めると。せめてなるべく長くいたいから、とそうしたが、はたしてその日が来たときに自分は彼を送り出すことができるだろうか? そんな不安に、心がまたもや打ち沈む。
(そんな日が来なければ良いのに……)
ずっとずっと彼とともにいられて、いろいろなことを学んで、好きなことをできて。そんな穏やかな日々が永遠に続けば良いのに。時なんか止まってしまえばいい。
(……まぁ、無理でしょうけど)
自然とため息がこぼれた。不可能であることはわかっている。それでもクラリスは願わずにはいられなくて。
またもやため息がこぼれ、慌てて首を振って憂鬱な気分を消し去る。こんな気持ちではいけない。せめて残された時間を楽しく過ごそう。そのためにもしっかりと心を切り替えなければ。
ゆっくりと深呼吸をした。冷たい空気が肺を満たし、いつの間にかまたざわめいていた気持ちが落ち着いていく。パチン、と軽く頬を打った。
「クラリス様!」
焦ったようにずっと静かに控えていたエッタが声を発した。けれどクラリスはそれを黙殺すると、彼女のほうを振り返り、告げる。
――戻りましょう。
「ですが、頬が……」
そう言いながら、エッタは動揺したようにクラリスの顔を見つめていた。それにつられて、そっと頬に手を伸ばす。ほんのりひりひりするが、軽く叩いただけだからそれもすぐに治まるだろう。それに大広間の熱気にあてられればおそらくさほど目立たないはずだ。……鏡がないから正確にはわからないけれど。
――バレやしないわ。ほら、早く……
そう言葉を紡いでいる途中だった。「やめてください!」と、悲鳴じみた声が耳朶を打つ。
なんだろう、と思ってあたりを見回していると、バルコニーの下、庭園にきらりと輝く何かが目に入った。そちらに視線をやる。
月光の下、長い銀髪を持つ少女が茶髪の男と向き合っていた。男が少女の手首を掴んでおり、少女は必死に抵抗しているようだが、庭園の奥へ奥へと連れて行かれそうになっている。よくわからないが、少女が嫌がっているのは明らかだった。
――エッタ、叫んで!
「何をやっているのですかっ!」
素早い指示にエッタは即座に反応し、大声で叫んだ。途端、二つの視線がこちらを射抜く。遠目なためあまりよくは見えなかったが、二人とも見られているとは思っていなかったのか、驚いたように目を見開いたようだった。しばらくして我に返ったらしく、男は風のようにぴゅう、と去っていった。その姿はすぐに闇夜に溶け込む。
解放された少女はどこか戸惑っているようだった。けれど少しは冷静なのかぎこちない動作でスカートをつまみ、頭を下げる。かすかに「ありがとうございます」との言葉が聞こえてきた。
クラリスはそれを見て、エッタにもしっかりと理解できるよう、ゆっくりとした動きで手話を紡ぐ。
――大丈夫よ。気をつけて会場に戻りなさい。
エッタが代わりに声を発した。少女は困惑したように視線をさまよわせ、……やがてもう一度礼をするとその場から去っていく。もちろんあの男が消えていったのとは逆方向に、だ。しばらく歩けば王城の入り口に出るだろうから、これで安心だろう。
ほっと息をつくと、エッタも同じように安心しきった声を発した。
「良かったですね、大事にならなくて」
――本当にそうね。それにしても……あの男は誰かしら? ルークに報告したほうが良いかも。そしたら然るべき手段を教えてくれるでしょうし。
「ええ、そうしましょう」
エッタは神妙な顔で頷く。それを見てクラリスは――戻りましょうか、と改めて言ってその場を去った。




