三章(4)
その後シュペリア公爵と当たり障りのない話をした。しかし彼は常ににこにこと笑っており、敵か味方か結局わからずじまいだった。はぁ、とため息をつきたくなるのをこらえ、クラリスはやって来る人たちに笑顔で対応する。
時折「わたくしも今年社交界デビューなのです! ぜひお友だちになりましょう!」などと言うようにぐいぐいと迫ってくる人などもいたが、正直一気にこれだけの人数を覚えるなんて不可能なため、笑ってごまかした。罪悪感は多少あるが、仕方ないだろう。安易な気持ちで友だちになったとしたら、こちらが油断しているところで何かされるかもしれないのだから。
とにかくそんなこんなでなんとか挨拶回りを終えると、クラリスはそそくさと壁際へ移動した。――ルーク、と、歩きながら付き従う彼に呼びかける。「何でしょう?」という声に、ためらいがちに問いかけた。
――……これからまだ社交しなければならないのよね?
「はい、もちろんです」
淡々と返された言葉に思わず盛大なため息をついてしまいたくなるが、それを何とかこらえて壁際に着くと立ち止まった。くるりと体の向きを反転させて大広間全体を見回す。
挨拶回りのせいであまり感じなかったものの、すでに舞踏会が始まってからかなりの時間が経っているからか、多くの男女がダンスを踊っていた。色とりどりのドレスがふわりと広がり、宝石がきら、きらと輝く。
(きれいね……)
そう、心の中でぽつりと呟くが、あまり心は打ち震えなかった。もう、疲れてしまっていて。挨拶の際はほとんど父が庇うようにしてくれたため直接会話することはなくても、気が抜けないという状況だけで疲労はたまるものだ。
ぼんやりと楽しげな光景を見つめながら、クラリスはゆっくりと手を動かした。
――疲れるものね。
「そうですね。特に初めてだと緊張してよりそうなるでしょうが、いずれ慣れますよ」
――本当?
「ええ、本当です。私だってそうだったのですから」
その言葉に、ちらりとクラリスはルークを見上げる。彼は手話を読み取るためかこちらをじっ、と見つめていて、視線がぶつかった。少し照れくさくなって逸らしながら、告げる。
――緊張しているあなたなんて想像つかないわ。
「……まぁ、なるべく隠すようにしてますからね。いつだって油断はできませんから」
クラリスはむっ、と不満げな表情を浮かべた。
――わたしも信用ならないってこと?
「そういうわけでは……。……もう癖みたいなものですから、そんな表情をなさらないでください」
それは彼にしては珍しく少しだけ弱々しい声色だった。ちらりと彼のほうを見れば、眉が下がっており、悲しげな表情を浮かべている。
そんなめったにない様子の彼に、クラリスは今の状況も忘れて音もなく笑った。いつになく子供らしく、可愛らしい彼に頬が緩まるのは、仕方のないことだった。
すると今度はルークが不本意そうな表情を浮かべる。さっきとは逆になったことが、何故だかわからないがこれまた面白くて、笑いをこらえることができなかった。
と、そのときだった。
「ルーク」
二人の間に割って入るように突如降ってきた声。それによって今が舞踏会の真っ只中であることを思い出し、クラリスは慌てて表情を引き締めてそちらを見た。
ルークよりも色の濃い、あたかも夜闇のような黒髪と黒目を持つ青年が、そこにはいた。年ごろはルークと同じくらいだろうか。どこかけだるげな雰囲気が漂っていて、失礼だが、どことなくこの場には相応しくないように感じる人物だ。
ルークの知り合いのようだが……と思いつつ隣に立つ彼を見上げれば、先ほどまでと同じく、珍しく表情を緩めていた。「オリオン」とその唇が動く。どうやらそれが青年の名前らしかった。
青年――オリオンは「やぁ」と、にっこりと笑みを浮かべながら手を上げて挨拶をする。すぐそばまで来ると、ルークのほうを見ながら尋ねる。
「彼女が君の教え子?」
「……ああ、クラリス様だ。クラリス様、こちらは学院時代の友人でオリオンです」
その途端、オリオンがぶふっ、と、貴族らしくないひどい笑い方をした。何かおかしいのか肩を震わせている。声を抑えようとしているのだろうが、時折「ふはっ……」などと小さな笑いがこぼれた。
そんな彼の様子を見てルークは不本意そうな面持ちをしている。もう一度オリオンを見て、ルークを見て、クラリスは首を傾げた。どうしたのだろう?
ひとしきり笑うと、オリオンはニマニマと笑いながら口を開く。
「先輩に対しても敬語を使わなかった君が、恭しい態度だなんてねぇ……」
「当たり前だろ。王女殿下だぞ」
その言葉に、少しだけクラリスは寂しくなった。ルークはクラリスを王女だからと線引きをして、一定の距離を保とうとしている。名前も呼んでもらえるようになり、最初のころよりも親しくなったものの……やはり友人であるオリオンに対するものとは違っていて、クラリスに対してはいつも丁寧な態度を崩すことはなかった。
それが正しいことだとは、わかっている。ルークの身分は、以前聞いたところただの子爵令息だ。何やら複雑な事情があるらしくあまり詳しくは聞けていないが、子爵令息と王女、その間にある身分の壁は大きい。ルークがクラリスに、オリオンに向けるような気安い態度を取れば、不敬だと言われて彼は捕えられても仕方がなくなってしまう。それくらいはわかっている。わかっているけれど……感情ではやはり納得できなかった。
きゅ、とドレスの裾を握る。どうしようもないほど寂しくて、胸が切なかった。彼とは対等でいたいのに……
そんなことを思っているとふと視線を感じて顔を上げれば、オリオンがじっとこちらを見つめていた。その顔には貼りつけたような笑みが浮かんでいるが、瞳は冷たく、冷静にこちらを観察しているような気がして。
ぞくりと悪寒が背筋を伝う。じり、と、思わずあとじさりした。
「ふぅん」と、どこか冷淡な声。オリオンはよりいっそう笑みを深めると、ルークのほうを見た。
「とりあえずルーク、頑張りなよ」
ルークはその言葉の意味がわからなかったらしい。「は?」とでも言いたげな表情を浮かべている。
クスリとオリオンは笑った。
「いろいろと。とりあえずはあっちだね」
オリオンが指差した先には、ギラギラと輝くような瞳でこちらを見つめる三人組がいた。おそらく両親と、その息子。息子のほうはクラリスと同い年なのか、社交界デビューの者の証である白い花を胸に挿していた。ちなみにクラリスも髪飾りとして白い花をつけている。
彼らを見た途端、ルークは「うげ」と、普段の彼からは想像できない声を発した。嫌悪が混じったもので、首を傾げる。あの顔立ちからして、おそらくあの三人組は……
そう思ったとき、ルークは盛大なため息をついた。「クラリス様」と呼ばれて彼のほうを見上げれば、ひどく嫌そうな、申し訳なさそうな、複雑な表情を浮かべていた。
「しばらくこの場を離れます。エッタを呼んでまいりますので、それまではオリオンとともにいてください」
――わかったわ。
何をするのかは尋ねることなく頷くと、彼はほっと安堵の息をついて、一礼をして去っていった。その場にはクラリスとオリオンだけが残された。




