三章(3)
楽の音が余韻をたなびかせて消えていく。やがて一瞬の無音ののち、クラリスとエリオットはどちらからともなく体を離した。それはこの場で踊っていたどのペアも同じで、すぐにお礼の言葉を口にしたり互いのダンスを褒めあったり、はたまた甘い言葉を囁いたりする。
そのときになって、クラリスは困り果てることとなった。ダンスを踊ってくれたのだからお礼をするのは当然だが、今この場には手話をわかる二人がいない。入場する直前に別れたエッタはおそらく別の扉から入ってきて壁付近で待機しているだろうし、ルークに至ってはどこにいるのか皆目見当もつかなかった。
どうしよう……と思っていれば、エリオットが「ありがとう」と、にっこりと微笑んで言ってきた。早く返事をしなければ彼に対して失礼だろう。けれど、伝えようにもその手段がなくて。
その場でもたもたしていれば、「クラリス様」と、聞き慣れた声が鼓膜を揺らした。そちらを見やれば、焦りを含んだ紫紺の瞳がクラリスとエリオットを見つめていた。ルークはすぐさまクラリスのそばに立つと、エリオットに向かってゆっくりと腰を折る。
「エリオット様、クラリス様の手話通訳をさせていただきます」
「うん、お願い」
エリオットはルークの言葉に頷くと、こちらのほうを見てきた。その瞳に、慌ててクラリスは手話を紡ぐ。
――こちらこそ踊ってくれてありがとう。本当にリードが上手で驚いたわ。さすがね。
その言葉をルークが声にする。「そんなことないよ」とエリオットははにかんだ。
その後あの忠告のことは口にせずいくつか当たり障りのないやりとりをすると、エリオットはどこかへ去っていった。途端、「クラリス様」と、ルークの厳しい声が降ってくる。……これは注意を受けるときの声だ。
おそるおそるルークを見上げれば、彼は呆れたような目でクラリスを見下ろしていた。はぁ、とわざとらしいため息。
「こういうときこそベルを鳴らしてください。すぐに駆けつけますので」
――……そういえばその手段があったわね。ごめんなさい。気が動転していて頭から抜けてたわ。
確かに言われてみれば、こんなときこそベルの出番だった。何のために腰に下げているのだろう。聞こえるのかはわからないが、そもそも鳴らさなければ通訳を求めていることも伝わらないのだ。
素直に謝れば、ルークは「次からは注意してください」と言う。その声は柔らかくて、心臓が一際強く鼓動を刻んだ。
気を取り直して、クラリスはルークとの会話を終えるとゆったりとした動きで歩き始めた。ダンスが終わったため、これからの時間はしばらく挨拶回りだ。と言ってもクラリスは王女であるから、基本相手のほうから近寄って来る。しかし今回は社交界デビューであるため、両親に紹介されなければならず、合流する必要があったのだ。これ以降の舞踏会などでは一人での挨拶回りが許されるのにそういう慣例があるのは、おそらく初めての社交界で戸惑う者を守るためだろう。
事実、クラリスだってひどく緊張していた。これで一人で挨拶回りをしろ、と放り出されていたら涙目になっていたに違いない。しかもルークもいなかったら余計に。
話せないということに理由をつけて常に誰かがそばにいてくれるというのは、めったにない利点だろう、と、そんなことを思いつつ進んでいれば、両親と合流する。途端、まるで待ち構えていたかのようにどっと人が押し寄せてきた。
最初に話しかけてきたのは王弟でありエリオットの父であるハルディア公爵だった。にっこりと笑っている彼の隣には美しい女性がおり、おそらく彼女がハルディア公爵の妻、エリオットの母なのだろう。二人は仲良さげに寄り添っており、はたから見ても幸せそうだった。
「陛下」とハルディア公爵。父は笑みを浮かべた。
「久しぶりだな、テオ」
「ええ、お久しぶりです、陛下。――ところでそちらが?」
そう言って、ハルディア公爵はこちらに視線をやってきた。クラリスとも同じエメラルドの瞳には複雑な感情が見え隠れしており、どこか気まずげだった。
しかし父は気にしてないのか、はたまた気づかないふりをしているのか、至って平然と答える。
「ああ、娘のクラリスだ」
そう言ってちらりと父が見てきたので、クラリスはゆっくりと淑女の礼をとった。そして一度体勢を立て直すと、手を素早く動かす。
――お初にお目にかかります、クラリス・シャールフです。
隣にいたルークがすぐさまそれを声に乗せる。どこからかハッ、と息を呑むような音が聞こえたが、今はそんな場合ではないとクラリスは無視をした。初めての社交界。ここで失敗をしてしまえば一生苦労することになるだろう。
ハルディア公爵は「ああ」と、呟くように言った。
「それが手話ですか」
「ああ、そうだ。――ところで……」
そこからはまた別の話題に移ったため、ハルディア公爵の視線がクラリスから外れた。思わずそっと息をつく。彼は次期国王と言われているエリオットの父だ。クラリスがいるにも関わらず自分の息子がそうであることを申し訳なく思っているのか、またはクラリスのことを邪魔だと思っているのかはわからないが、とにかく向けられる視線が気まずかったから正直助かった。
ハルディア公爵との会話が終わり離れていくと、次にやって来たのはまた別の公爵だった。四十ほどの男性で、どこか王族と血が繋がっているのか、父たちに似た淡い色合いの金髪を持っている。彼は洗練された動作で礼をとると、父に挨拶をしてすぐクラリスに視線を向けてきた。
「お初にお目にかかります、王女殿下。デニス・シュペリアと申します。以後お見知りおきを」
――ええ、よろしくお願いします、シュペリア公爵。
クラリスはじっ、と彼を見た。
ルークから以前聞いたことだが、今この国の貴族たちは大きく三つの派閥に分かれているという。その原因が誰が王位を継承するべきか、という問題だった。多くの研究者から学び、政治活動でもすでにいくつもの実績を上げているエリオットにつくか、話せないものの正当なる王位継承者であるクラリスにつくか、はたまたそのどちらにも所属しないか。その三つの選択肢が貴族たちには与えられている。
その中でエリオット派の筆頭は彼の父であるハルディア公爵だった。そしてクラリス派の筆頭が、今目の前にいるシュペリア公爵らしい。彼と親しくしていて損はないが、油断してはならないとルークは言っていた。どうやらクラリス派の中には、王を傀儡にして政治を意のままにしたいが、エリオットだと言うことを聞かないだろうから、あまり良い噂のないクラリスについているというだけの人もいるとのこと。
(彼はどうなのかしら?)
そう思いながらシュペリア公爵を眺めていれば、彼はにっこりと微笑んだ。その笑顔からは何の感情も窺えなかった。




