二章(13)
「久しぶりね、クラリス。今日は三人だけだから、堅苦しくなくていいわよ」
――ありがとうございます、母さま。
手話でぱぱっと返事をすれば、それをルークがすぐさま口にする。「……と、クラリス様はおっしゃっています」と付け加えて。
それにエリオットはわずかに目を見開いていたものの、母はさほど気にしていないようだった。おそらく報告が上がっていただろうから、手話のことは知っていたとに違いない。それでも少しだけ間が空いてから「……いいえ、大丈夫よ。さぁ、おかけになって」と声を発した。その声はどことなく嬉しげだった。
――はい、失礼します。
そう手を動かして、クラリスは侍女が引いた椅子に腰掛ける。そこでふと、母やエリオットにルークを紹介していないことに気づき、慌てて手を振った。
――こちらがわたしの手話通訳のルークです。
「…………王妃様、エリオット様、遅くなりましたが自己紹介をさせていただきます。クラリス様の教育係を務めさせております、ルーク・アドランです。今回はクラリス様の手話通訳として同行いたしました」
後ろに控えていたルークは、クラリスの言葉をそのまま言うのではなく、そう自己紹介をした。一瞬どうして言い換えられたのか戸惑ったが、そういえばルークが「こちらがルークです」と言うのもおかしい。かと言って突然お茶会のメンバーではないルークが自己紹介をするのも不敬なことだったが、クラリスが〝何かを言ってしまった〟から、何らかのアクションを起こさざるを得ないだろう。お茶会の場で突然参加者でもない手話通訳士に内密に――この場で手話がわかるのはルークだけだから必然的にそうなってしまう――指示を与えるなんて、それ以上に不敬なことだからだ。これは完全にクラリスの失敗だった。
心の中で後悔しながらも、なんとか穏やかな表情を保つ。貴族はめったに感情を表さないものだとルークに徹底的に叩き込まれていたから、そうするしかなかったのだ。
母はひとつ瞬きをしたあと、にこりと笑みを深める。
「噂は聞いているわ。――さぁ、お茶会を始めましょう」
そうして最初から失敗をしてしまいながらも、お茶会は始まった。
和やかに母の用意した茶や菓子を口にし、感想を言い合う。ルークはクラリスの〝声〟として、ときどき失敗してしまいそうになっても言い回しを変えることによってフォローをしてくれた。そのたびにクラリスは落ち込み、反省する。
(やっぱり、実践は大事ね……。練習とはまったく感覚が違うわ)
茶会の練習相手は基本エッタで下位の者相手のものしか経験していないし、しかもこんなふうに庭園に出たりしては行わなかった。作法は叩き込まれていてもやはり勝手が違い、戸惑う。
そんなことを思いながらお茶会を進めていると、エリオットが口を開いた。
「それにしても手話なんて、いつの間に知ったんだい?」
父や叔父と同じエメラルドの瞳がクラリスのほうを向いた。どきりと心臓が跳ねる。
エリオットはクラリスとは違い、父や叔父に瓜二つと言っても良い見た目だった。柔和な顔立ちに白皙の肌、薄い金髪、エメラルドの瞳。父たちの幼少期を思い起こさせるその姿なのも、もしかしたら彼が次期国王だと言われる理由のひとつかも……
(……って、何を考えているのかしら、わたし)
そんなのは関係ない。クラリスだって父のエメラルドの瞳や目元の形など、いくつもの特徴を受け継いでいる。彼が次期国王だと言われているのは彼自身の実力によるものだ。
そうだと理性ではわかっていても……なかなか、感情では納得できなかった。彼がいなければ自分が次期国王だった、両親の娘だって堂々と胸を張れた。そんなことを思ってしまい、嫉妬が首をもたげる。
黒々とした感情を抱えながらも、クラリスは冷静を装って返事をした。
――昨年の春よ。
「へぇ……さすがだね、ルーク・アドラン。学院の首席卒業生というのは伊達じゃない」
エリオットはつ、と視線を動かしてルークのほうを見た。そのことに、クラリスは思わず目を見開く。お茶会の参加者じゃないルークに話しかけるという〝失敗〟を彼のような人物が犯すなんて……
(いえ……そもそもわたしがルークに自己紹介をさせたから……)
だから彼はルークを〝空気〟と見なさなかった。話しかけた。つまりクラリスの行動がエリオットがルークに話しかけるきっかけを与えてしまったのだ。
(それにしても、どうして話しかけたのかしら?)
不思議に思いつつ理由を探るためエリオットの発言を思い返そうとしていると、ルークの声が耳朶を打った。
「いえ……私はただ、手話という手段があるのを知り、それを学んでクラリス様に教えただけです」
「それでもすごいよ。今までこの王城にいた誰もが、クラリスは筆談をするしかない、と思い込んでいたからね。僕だってそうだ。それ以外の手段を与えられた君は優秀さ」
「……ありがとうございます」
ルークの前にいるため、彼の表情をクラリスは見られなかった。しかしその声色は何かの感情を押し殺したもので。
……もし、エリオットに褒められて喜んでいたら。そんなことを思ってしまい、少しだけ胸がざわつく。何となくそのことが気に食わなくて。今すぐ彼と二人きりになって、話したくなる。
――あなたは離れていかないわよね? と、確認したくなる。
そんなドロドロとした気持ちを自覚して、クラリスは思わず苦笑した。なんて醜い。そもそもそんなことなんて絶対にありやしないのに。
クラリスは王女だ。後ろ盾を手に入れるために結婚をして女王になるか、臣下に降嫁するか、はたまた他国の王族と婚姻するか。クラリスが話せないことも相まって今のところどうなるのかはわからないが、将来に関してはこの三つの選択肢しかなく、そうなればどれにしろルークは教育係を外される。まだまだクラリスは学ぶことがあるとはいえ、結婚した女性が成人男性を優遇していれば不義密通を疑われるからだ。だからルークと離れないことなど、ない。そんな未来は永遠に来ない。
(わたし、は……)
ズキリと胸が痛んだ。首を振って、それ以上考えないようにする。今はとにかく、彼と一緒にいられる幸せを噛み締めていたかった。未来のことなんて考えたくない。
テーブルの下で強く拳を握りしめる。と、エリオットがこちらに視線を向けてきた。
「そうだ、クラリス。次の春に社交界デビューだったよね? ちょっと気が早いかもしれないけれど、ファーストダンスは僕と踊ってくれないかな?」
そう尋ねてきたエリオットに、クラリスはサッ、と青ざめた。社交界デビューをするとなれば、必ずダンスを踊る必要がある。だがしかし、今の今までそのことを忘れてしまっていた。
つまり――クラリスは今まで一度もダンスの練習をしたことがない。
顔を強ばらせながら、クラリスはゆっくりと頷く。……社交界デビューまで残り数ヶ月。頑張ればきっとなんとかなるはずだ。
――喜んで。よろしく、エリオット。
クラリスの代わりに返事をしたルークの声も、心なしか強ばっているように聞こえた。




