二章(11)
部屋に入ると、クラリスは執務机の前にある豪奢な椅子に腰掛け、足をぶらぶらとさせていた。手持ち無沙汰な感じで宙を見つめており、左手の指先を口元に当てていて、あたかも独り言を呟くかのように、時折右手を動かしている。どうやら何か考えごとをしているよう。
あまり邪魔するのは悪いと思い、ルークはひとまず手に持っていた書物を並べていくことにした。それぞれ所定のページを開き、何か問われたらすぐにでも参照できるように準備を整える。栞は挟んであるためページを見つけるのは容易だったものの、いかんせん一冊の本に何ヶ所も参照するべき部分があるため、どのページを開いておくかで迷ってしまう。そのためかなりの時間をかけて作業を終えたが――クラリスは未だ考え事に耽っているようだった。なかなか結論にたどり着かないのか、少しイライラしているのが雰囲気から窺える。
……やがて、クラリスがふぅ、と息をついた。疲れたように椅子に深くもたれかかる。その瞬間、ルークは「クラリス様」と呼びかけた。
途端、クラリスはピシッと音がしそうな勢いで背筋を伸ばす。ぎこちなく首が動いて、視線が合い、……――いつからいたの? と尋ねられた。気まずげに。
「少し前からですね」
淡々とそう答えれば、クラリスはほんのりと頬を染めてぷいっとそっぽを向いた。唇を尖らせて、照れている様子。
そんな幼い仕草を微笑ましく思いながら、「それで、」とルークは口を開いた。
「何を考えていたのですか?」
いつも何か彼女が考えごとをしたりしていれば尋ねていることだった。今まで学問に触れてこなかったためか、彼女の発想はときどきルークの考えつかないすごいものがある。それが、もしかしたら自分の研究に役立つかもしれない、と気になっているたのだ。
……もちろん彼女自身があまりにも間違ったことを考えていたり、情報不足のために行き詰まっていたらフォローするという目的もある。あるのだ。だから私利私欲のためだけではない。断じて違う。
誰にでもなくそう心の中で言い訳をすれば、クラリスは目をキラキラと輝かせ、いつもよりも俊敏な動きで手話を紡いでいった。
――ルーク、〝言葉〟ってそもそもなんだと思う?
「言葉、ですか?」
抽象的な質問に、ルークは首を傾げる。クラリスは頷いた。
――そう、〝言葉〟。わたしは漠然と『声』のことだと思ってたんだけど、そう言えば手話だって〝言葉〟と言えるし、文字もそうだなって気づいたのよ。
クラリスはルークが口を挟む間もなく、猛烈なスピードで手を動かしていく。
――ということは〝言葉〟は『声』ではないのよね。だったら『意思を伝達する手段』かと思ったけれど、それだと紙に書かれた文字はどうなるの? あれだって〝言葉〟だけれど、『手段』ではないわ。『手段』は『書く』ことであって、文字そのものではないのよ。ということは『意思を伝達する手段』というのも不適当。そこで行き詰まっていたのよ。
クラリスはそう言うと、ふぅ、と息をついて手を下ろし、こちらを上目遣いで見てくる。
ルークは思わず渋面を浮かべた。こういう哲学的なことは苦手なのだ。自然現象や経済の仕組みなどとは違って結局は言葉によるものだから曖昧模糊としていて、明確な解答が存在しない。そういうはっきりとしないものはあまり好まなかった。
心の中でうなりつつも、ルークは思ったことを口にする。
「〝言葉〟とは何か、ですか……。正直に言いまして、それは朧げに認識することはできたとしても、全容を掴むことも、言語化することもできないような気がします」
――どうして?
「ここからは素人の戯れ言だと思ってお聞きください」と一言断って、ルークは口を開く。
「私たち人間は〝言語〟によって支配されていると言えます。クラリス様もご存知でしょうが、この世界は混沌としていて、その物体に名前をつけることによって人間は世界を理路整然としたものとして見ているのです」
世界には雑多なもので溢れている。それに一つ一つ名前をつけ、または名前をつけないことによって人間はその物をカテゴライズし、世界を秩序ある〝ように〟見ているのだ。しかもその仕方は言語ごとによって異なる。
たとえば「兄弟」の区別の仕方だ。ある言語では「兄」と「弟」に対応する単語が存在しており、どちらが年上かどちらが年下かを明確に区別している。しかしまた別の言語では「兄弟」という単語しか存在せず、「兄」と「弟」に対応する単語は存在しないため、どちらが年上かどちらが年下かを区別していない。前者を母国語としている者が後者を母国語としている者に「それでは不便ではないか?」と尋ねれば、「別に?」と返される。
すなわち、言語によって何に名前をつけるか、何に名前をつけないのかは異なり、世界に対する認識の仕方も違うのだ。
では、〝言語〟とは何なのか。それぞれの言葉で認識が違うのならば、その根幹にある共通部分とは何なのか。
「私はそれが〝言葉〟だと思うのです。〝言語〟の根底には〝言葉〟が眠っている……しかしそこには〝言葉〟すべてが包括されてあるのではなく、その言語の創始者が掴み取った〝言葉〟の一部分だけだと思うのです。だから言語によって認識する世界が変わってくるのだと言えます」
そこまで話すと、クラリスは得心のいった表情を浮かべた。
――つまり〝言語〟は〝言葉〟の末端の末端。それを使って上位のものである〝言葉〟を言語化することは不可能、というわけね。
「はい。それに私たちの認識は〝言語〟によって無意識のうちに制限を受けているため、全容を掴むこともまた不可能かと。……私の一意見ですが」
――確かにその通りね。……すごいわね、ルークは。
クラリスは少しだけ悔しそうに視線を逸らした。その態度に、ルークは思わず口元をほころばせる。こんなことを本人に伝えれば嫌がられるだろうが、愛らしい姿はあたかも子供のようで、少しだけ気持ちが落ち着いた。侍女たちとの会話でささくれ立っていた心が穏やかさを取り戻す。
笑いながら、「大したことないですよ」とルークは告げた。
「以前も申し上げましたが、研究で一番重要なのはひらめきです。それがなければ、研究データを集めたところで何の成果も上げることができないのですから。私もまったく意識したことのない点に注目できるクラリス様は、研究者として優秀だと言えますよ」
――ありがとう。
そう、無邪気にはにかむクラリスに。
ふと、ルークは、彼女はこのままのほうが良いのではないだろうか、と思った。言語について話す彼女はひどく楽しげで、幸せそうで、今後政治に携わることになって欲にまみれた世界に身を浸すよりは、研究者として大成したほうが、きっと……
――ルーク?
「……何でもありませんよ、クラリス様」
ルークはその思いを大事に箱にしまうと、心の棚にそっと安置した。今はまだ、あまりそのことを考えたくなかった。
補足:「兄弟」の例は日本語の「兄」「弟」と、英語の「brother」をモデルにしてます。わかりづらかったらすみません。




