二章(5)
ルークはわずかに迷いを見せたあと、クラリスの手を引いて一つの店に入った。カランカラン、と、軽やかなベルの音が店内に響く。
どうやらそこは香水専門店だったらしく、店内に置かれた棚には光を受けてキラキラと輝く色とりどりの香水瓶が置かれていた。大きさも形も様々で、見ていて飽きないとひと目で確信できるほどの数が並べられている。
クラリスは思わず目を輝かせた。多くの種類がありながらも雑多な印象にならないのは、色合いや形が似ている物をなるべく集めているためだろうか。とにかく綺麗で、素敵で、胸が躍った。
ぐいっとルークの手を引っ張ってそれぞれの棚を眺めていく。値札はついておらず、棚によって値段が揃えられているようだった。適当に見た棚は店の中で一番安いものだったらしく、小ぶりなものが多く並べられている。それぞれ銀貨六枚。
一つ取ってよく見てみようと思ったが、……手を伸ばす直前でふと思いとどまる。ルークの注意事項の中に、「店の品物に勝手に触れてはならない」というものがあったはずだ。口酸っぱく言われたからよく覚えている。ということは何も書かれていないけれど、暗黙の了解というやつでここでも商品には触れてはいけないのではないだろうか。
ちらりとルークのほうを見れば、彼は子供を褒めるように微笑むと、「店主」と奥に向かって声をかけた。クラリスはそのときになってやっと、奥のカウンターに男性が座っていることに気づいた。彼はルークに似た目でこちらを見つめてきている。
途端、羞恥心が湧き上がってきて、思わずうつむく。今までの興奮っぷりをルークだけでなく――いや、ルークだけでも恥ずかしいけれど、その上第三者にまで見られていたと思うと顔から火が出そうだった。
うう、と呻きながら悶えている横で、ルークと店主が軽くやり取りをする。「手に取ってみても良いでしょうか?」「ええ、もちろん。ただ落とさないようにしてくださいね」二人の声色は本当に優しく、慈しみに満ちたもので、許可を取れたのは嬉しくても、素直に喜べなかった。その様子もまた子供らしく愛らしいと思われてしまいそうで。
だけど、そんなことを思っていられたのもほんの少しの間だけだった。ルークに促されて、香水瓶を一つ手に取ってみる。透明な硝子の、シンプルな蓋つきのものだ。しかしよくよく見れば細やかな装飾が刻まれており、ゆらゆらと中の液体が揺れている。ゆっくりと上にかかげれば、光を受けて中に入っていた香水がきらりと煌めいた。ほぅ、と、思わず感嘆の息をつく。
――綺麗ね。
「そうですね」
思わず動かした手に、ルークが言葉を返してくる。光が反射して、舞う。踊る。このままずっと見ていられるのではないかと思うほど美しい光景だった。自然と見惚れてしまう。
けれどあまり長くは見つめていられない、ということで、名残惜しげにその香水瓶を棚に戻した。後ろ髪を引かれながらも、ほかの香水瓶たちも見ていく。
色も大きさも形も様々な香水瓶。中に入っている香水も様々で、本当に見ていて飽きなかった。
手に取って眺めたい、という欲求はありながらも、いちいちそれをしていると時間があるので、なんとか我慢する。が、やはり我慢することはできず、いくつか手に取って蓋を開けて――もちろん店主に許可は取った――香水を嗅いでみた。すべて上品で穏やかなもので、うっとりとしてしまい、そのたびにルークの慈しむような視線がこそばゆかった。
そんなこんなでぐるりと店内を一周して、その次に中央にあった平台を見る。
そこには先ほどとは違って香水瓶だけが並んでいた。香水が入っていないためか値段は明らかに安くなっている。けれどどうやら香水を入れるとなるとあまり値段は変わらないらしく、そう、平台に飾られた説明の紙に書かれていた。だけど好きな組み合わせを選べるのは正直嬉しい。多少――銅貨五枚ほど――高くなったとしても、クラリスはこっちを選びたかった。
香水が入っていないためまだ完成されていないそれらを眺めていると、ルークの声が降ってきた。
「上級貴族や中級貴族向けの店ですと、香水瓶も香水も、その人のためだけに作ることが多いです。いわゆる一点ものですね。こちらの店ですとそういうわけではないので、それらよりは安くなっております。下級貴族、もしくは一部の平民の富裕層向けの商品です」
――えっ、こんなにも綺麗で素敵なのに、もっと良いものがあるの?
その返事に、ルークは苦笑を浮かべた。
「良いものというよりは……特別なもの、でしょうか。自分だけに作られたものという高級感のために一点ものを作らせるのです」
その説明は腑に落ちなかった。特別なものとは良いものであるはずだが、わざわざルークが〝特別なもの〟と言い換えたのならば何か理由があるのだろう。しかし……それがわからない。〝良いもの〟と〝特別なもの〟の違いは何だろう?
思わずむっ、と顔を顰めると、それに気がついたのかルークがクスリと笑ってわずかに屈んできた。耳元に柔らかな息が当たる。
その途端、どきりと心臓が跳ねた。羞恥心に似た、だけどどこか違う感情が全身を支配する。ぴくり、と指先が震えた。
かすれた声が耳朶を打つ。
「実はそういう貴族たちが製作を頼む調香師たちにもピンからキリまでありまして……確かにほかにはない匂いですが、ちょっと良くないが時折あるのです」
面白おかしそうな、くつくつとした笑い声。返事をしないと、とは思うが、集中できなくて、考えがまとまらなくて、どきどきと心臓がやかましい。ひどく熱っぽかった。
うう、と心の中でうなっていれば、様子がおかしいことに気づいたのか、ルークが顔を覗き込んできた。紫紺の瞳に、真っ赤な顔が映り込む。「どうしたのですか?」と、困惑したような声。
――な、何でもないわよ!
乱暴に手を振り、クラリスはそっと店を出る。「クラリス様!」とルークが呼ぶが、それを気にすることなく店を飛び出した。カランカラン、と荒れたベルの音。外で控えていた衛兵たちが驚いた顔をしてこちらを見つめてきた。
それを見て、ようやっと冷静になる。
(そう言えば、離れたらいけないって言われていたわ……)
ぴたりと足を止めた。顔の火照りが急速に冷めていく。危うくルークの注意を破ってしまうところで、なんとか直前にそれを思い出せたことにほっと息をついた。
そのとき、ルークが続いて店から出てくる。「クラリス様」と、安堵したような声色。クラリスは彼のほうに向き直って、右手を胸元で回した。
――ごめんなさい。ちょっと冷静じゃなかったわ。
「いえ、大丈夫です。離れなければ、それで。……ところでどうしてそのようなことに?」
そう問われて、クラリスは先ほどのことを思い返す。確かルークに近づかれて、そのせいでぶわっと全身が熱くなって……
首を傾げる。どうしてそうなったのか、自分でもわからなかった。
――わからないわ。
「そうですか……」
「まぁ、いいでしょう」とルークは呟くように行って、再度手を取ってきた。
「とりあえず、この店は見終わったことですし、次の店に参りましょう。今度は離れないでくださいね」
――ええ、わかったわ。
クラリスはしっかりと頷く。ルークはそれを見ると顔をほころばせ、歩き出した。そのあとを、クラリスはゆっくりとついて行った。




