二章(4)
馬車から降りると、まず目に飛び込んできたのはレンガの壁だった。視線を上げれば、どうやらかなり大きな建物だというのが窺える。青い空を遮るように建物の屋根があった。
そっとあたりを見回す。周囲は薄暗く、人通りは一切なかった。ちょうど建物と建物の間の小道らしく、裏口がちらほらとあるだけで寂しげな雰囲気が漂っている。おそらく反対側が店の正面になっているのだろう。
初めて見る城の外の光景に気を取られながらそんなことを思っていると、案の定というか足を踏み外した。あ、と思う間もなく浮遊感が襲いかかってくるが、それも一瞬のこと。すぐにルークが支えてくれ、クラリスはほっと息をついた。
耳元で安堵の息。
「王女殿下……気をつけてください」
――ごめんなさい。
素直に謝り、クラリスはいそいそと体勢を立て直す。いつもより生地は悪いものの動きやすさに関しては今の服のほうが断然良いため、簡単にルークから離れることができた。
そうして彼の顔を見て。
紫紺の双眸に優しい、慈しむような、幼子に向ける光が宿っていることに気づき、今さらながら恥ずかしくなった。何もかもが初めてで興奮していたことを知られていたに違いない。うう、と心の中でうめきながら下を向く。頬が熱っぽかった。
そのとき、クスリという笑い声が降ってくる。「行きますよ」という柔らかい声。どこか子供を相手にしているような声色に聞こえるのは、先入観からだろうか? とりあえず恥ずかしいことには変わらない。
クラリスは顔を上げることなく小さく頷くと、今度はしっかりと足元を見て残された段差を下りた。すぐにカツ、と、これまたルークに準備されていた焦げ茶色のブーツが石畳にぶつかり、軽やかな音を立てる。
先を歩く彼は、そばにいた衛兵たちといくつか言葉を交わすと、こちらを向き、「これから大通りへ向かいます」と言った。
「ないとは思いますが、決して手を離さないようにしてください。迷子になったらその場に留まること。動いてはなりませんよ。あと、ここにいる人たちを覚えてください。それ以外の人について行ってはなりません。それと――」
ルークはどんどん注意事項を重ねていく。必ずルークの言うことを聞くようにだとか、店の品物に勝手に触れてはならないとか、雑多なことを。それらはつい昨日も言われたことと一言一句同じで、思わず顔を歪めた。子供扱いされてるみたい。
――そんなに心配しなくても大丈夫よ。
「いえ、念には念を入れておきませんと。ここは城の中ではないのですから」
どうやら彼は一歩も譲る気はないらしい。すぐに注意を再開させていき、正直鬱陶しくなっていく。
仕方ないので大人しく……というかうわの空で聞いていると、「あ、そうです」と、ルークが少し昨日と言葉を変えた。首を傾げる。
「あまり王女殿下だとは知られたくないため、今日だけは『クラリス様』と呼ばせていただきます。よろしいでしょうか?」
クラリス様。それを聞いた途端、何故だかどきりと心臓が跳ねた。カッ、と全身が熱くなって、ぐるぐると血流が巡る。どうしてだかは、わからない。わからないけれどいたたまれなくなって、だけどそれがどこか心地よくて……
(な、なんなのかしら?)
よくわからない感情。感覚。それらを持て余していると、ルークが「王女殿下?」と呼びかけてきた。いつも通りの呼び名にほっとしながら、だけど何か物足りない心地。不透明な激情に翻弄されながらも、クラリスは手を振って応えた。
――何でもないわ。ただ、ちょっと…………ええ、そうね、聞き慣れなくて……
「そうですか。ですがさすがに街中で王女殿下と呼ばせていただくわけにはいきませんので、慣れてください」
――わ、わかったわ。
確かにその通りだ、ということでクラリスは素直に頷く。けれど未だドギマギしていて、全身が熱っぽくて、彼の視線を感じて、ひどく落ち着かなかった。できることならば今すぐこの場から逃げたい、と思いたくなるほど。
うう、と唸っていると、「では、」とルークの、クラリスとは違って淡々とした声。
「参りましょう、〝クラリス様〟」
その呼び名に内心悲鳴をあげながら、クラリスはこくりと頷いた。
そんなクラリスだったものの、暗い路地裏を抜けて大通りに出れば、ルークのことを気にする間もなかった。澄み渡る青空の下、今日初めて乗った馬車が三台も横に並べそうなほど広い通りが広がっていた。道の両脇には個性豊かな店が軒を連ね、ある店は落ち着いた雰囲気なのにその隣の店はカラフルで明るい雰囲気など、本当にごたまぜだった。しかし道行く人は少なく、時折馬車が行き交うほかは十人ほど、クラリスと同じか少し質の良い服を着ている少女がいるだけだった。彼女らも何人か護衛を連れており、微笑ましそうに見つめられている。
もしかして自分もそう見られているんじゃ、と思うとまた先ほどの羞恥心が蘇ってきたが、ルークが口を開いたことによってそれは気にならなくなった。
「ここは商業区でも中間あたりの、貴族も平民の富裕層も来るあたりです。普段はもっと馬車が多く、人通りがありますが、今日は社交が始まる日ですので。貴族はたいていその準備に追われているのですよ」
そう言われて、クラリスはルークの講義を思い出す。この国の社交界は毎年春に始まり、夏の半ばで事実上一旦なくなり、終わりごろになると再開されて秋の半ばに正式に終わることになっている。その始まりの日――今年社交界デビューする者のお披露目も兼ねた国王主催の舞踏会が今日だと、確かに聞いた覚えがある。エッタが「私たちも準備に駆り出されることになるのですよ! ひどいです!」と誰かに聞かれたら危ない発言をしていたような。
とりあえずそんな重要な日ならば、なるほど、貴族たちは準備に大忙しで、あまりここまで来て買い物をしないだろう。普段ならここはお茶会で見たような貴族令嬢たちで溢れているのか……と思いを馳せていると、「……勘違いなさってそうなので言いますが」とルークが声を発した。
「普通、貴族令嬢は出歩きませんよ。ここを出歩くのは貴族たちにお使いに出された使用人たちです」
その言葉に、クラリスは目をぱちくりさせた。
――そうなの?
「はい。自分からはあまり動くことなく下の者を使うのが、貴族というものですから。使用人を店に行かせるか、商人自身に屋敷に来てもらうかの二択です。自分で買い物をしたりしていたら『あの家は使用人も雇えないほど貧乏だ』と噂されることになりますし」
ふぅん、と思いながら顎に手をあてる。エッタもそうなのだろうか? 彼女が誰かに頼んでいる姿なんてなかなか想像できないと思いつつ、ふと気づいた。
――じゃあ、どうしてエッタは貴族令嬢なのにわたしに仕えているの?
「ああ、それはですね、平民が直接王族に仕えるのはあまりよろしくないということから、王族や高位貴族には下級貴族や中級貴族が仕えるのです。〝下賎なもの〟に触れてはならない、という考えなのでしょう」
その言葉に、クラリスは少し引っかかった。だけどそれを掴む間もなく「少し店を見て回りましょうか」とルークが言い、歩き出すことになった。




