二章(3)
そして数日後、クラリスはルークに渡された衣装を着て、自室で彼を待っていた。ドレスでは街中を歩けないということで、町娘風の白いブラウスに茶色の脛丈のスカートだ。いつものドレスよりも布自体の品質が悪いのかゴワゴワしているし、ブラウスだって少しくすんだ色になっている。そこが多少不快だったけれど、そんなこと気にならないほど、クラリスは初めて出る城の外が楽しみで、同時に不安だった。しきりに指を組んだり解いたりしている。
城の外については、昨日一昨日とルークが教えてくれた些細なことしか知らない。それゆえに好奇心が膨らんで楽しみだし、もしはぐれてしまったら……と思うと途端に行くのをためらってしまう。相反する感情が胸の内でぶつかり合っていて、心が大きく波打っていた。
……しばらくしてルークがやって来た。彼は一見いつも通りの格好に見えたが、ぴっちりと着ていたジャケットを脱ぐとやはりクラリスと同じくいつもの服よりも劣ったもので、くたびれたシャツに紺色の少しゆったりとしたズボンだった。おそらく、想像にはなるが、普通の人は普段、このような衣服を着ているのだろう。
その姿を興味深く見つめていると、手が目の前に差し出された。
「行きますよ、王女殿下」
――……ええ。
クラリスはそっと手を重ねて立ち上がる。スカートが揺れ、亜麻色の髪が頬をくすぐった。
ルークにエスコートされ、クラリスは歩き始めた。部屋を出ると、外にいた衛兵の半分が何も言わずについてくる。
どうやらルークは父の側近を通じてクラリスが王城の外に出る許可を求めたそうだが、やはり王族だから護衛は必要だ、と言われたらしい。そのため衛兵たちが静かに、わずかに距離を保ちつつ、外出についてくるとのこと。
(それってもう、変装する意味ないんじゃないかしら……?)
それとも、襲われたりしないためにルークはこの服を渡したと思っていたのだが、その前提自体が間違っているのだろうか? しかしそれならばどうしてこの服を渡してきたのだろう、と思いつつ、クラリスはルークについて行った。
王城を出て、裏門の近くに止められていた馬車に乗り込む。基本自室にこもりっぱなしなため、久しぶりに長距離を歩きひどく疲れた。ふかふかの椅子に座り、深くもたれかかる。ふと、ここに来るまでの間誰ともすれ違わなくて、クラリスは首を傾げながらルークに尋ねた。
――誰とも会わなかったけど、何か手を回していたの?
するとルークは少し気まずげに視線を逸らした。ためらいがちに、途切れ途切れに話し出す。
「ええ、まぁ……そうですね。さすがに私が王女殿下にこのような格好をさせているとなると、外聞が悪いので……」
言われてみればその通りだった。王女にこんな町娘風の衣装を着させるなんて、不敬以外の何ものでもないだろう。うう、と心の中でうなり、自らの浅慮を恥じる。指摘されればどうして気づかなかったのか、と問いかけたくなるようなほど明らかなことだった。
そのとき、馬車がゆっくりと動き始めた。慣れない感覚に、思わず近くにあった窓枠を掴む。
「もしかして、馬車も初めてですか?」
その質問に、クラリスはそっと頷いた。きちんと手話で返す余裕などなかった。地面――というか座っている場所が動くという感覚は奇妙で、不安定で、心もとない。
ガタガタと大きく揺れる馬車に目を瞬かせながらじっと固まっていると、クスリという笑い声が耳に届いた。ちらりと見れば、ルークが笑っている。そんな様子にむくれていれば、彼はまるで幼子に向けるような目をこちらにやってきて、淡く微笑んだ。
「これからは、こういう経験もしていきましょうか。おそらく今日だけでは見たいところは全部回れないでしょうし」
クラリスは返事をしようとして……窓枠を掴んでいるため動かせないことに気づいた。わずかに逡巡したものの、結局、右手だけを離して動かす。
――そうなの? 意外と見せてくれるのね。
「はい。これも勉強の一環ですから」
それは城下へ行くと決まってから、ルークがよく口にする言葉だった。勉強と言われれば机にかじりついて講義を受けたりすることが真っ先に思い浮かぶから、あんまりそんな気はしないが。勉強というよりもプチ観光――自分のいる王都だけど――という気分だ。
それに対して何か返答をしようと手を動かしかけたところで、「さて、ここで復習です」とルークが口火を切った。
「王都はどのような形になっていますか?」
城外へ出るのだから、と、昨日一昨日で教えられたことが蘇る。大きく揺れる馬車にも慣れてきたため、クラリスはそっと、残っていた左手も窓枠から離すと、素早く手を動かし始めた。右手だけの手話でもかろうじて通じなくはないが、やはりやりやすさが違うのだ。
――扇形ね。要の部分に王城があって、そこから貴族の住む地域、商業区、平民の住宅区になっているのよね?
ちなみになぜ扇形になったのかというと、王都の立地が関係している。王城はちょうど二つある山脈がぶつかったところにあるため、そこから王都を広げていくと自然と山脈に沿うような形になり、扇形になったのだ。
すると、「よくできました」とでも言うようにルークが微笑んだ。
「その通りです。今回私たちが行くのは、平民の住宅区にほど近い商業区となります」
その言葉に、クラリスは首を傾げた。
――どうして? 商業区なら、貴族の住む地域に近いほうが安全なんじゃないかしら?
「確かに一見そうですが……まぁ平民なら、護衛を見ただけでこちらに手出しをしようとは思わなくなりますから。安全なのですよ」
そういうものだろうか? と思いつつも、その説明は一応は納得できるもので、少し顔を歪めてしまいながらもクラリスは頷いた。ルークのことだから、悪いようにはならないだろうと思って。そう思うくらいには彼のことを信頼していた。
そのとき、馬車が速度を落とし始めた。そろそろ目的地付近なのだろう。
しばらくして衝撃が少なくなるようにするためかゆっくりと、時間をかけて馬車が止まる。「さて、」と言ってルークが立ち上がった。また手を差し伸べてくる。
「参りましょうか」
――ええ、そうね。
クラリスは手を重ねる。
……少しだけ不安はあった。初めての城の外は、怖い。
だけど彼の手を取った途端、そんな気持ちなど霧消してしまう。彼がいるのなら大丈夫。きっと手を離すことなく、クラリスを守ってくれるだろう。そんな確信に近いものが胸にあった。




