プロローグ(1)
ざぁっ、と風が吹いた。春らしい朗らかな陽気の中、王城の庭園の一角でお茶会をしていた貴族令嬢たちの色とりどりのドレスが、まるで花のように揺れる。緻密に計算されて花壇に植えられていた本物の花も、風を受けて静かに震えた。くすくす、という令嬢たちの楽しげな笑い声や甘い香水が、ふわりと柔らかな風に乗って届く。
そのとき、誰かが呟いた。「エリオット様よ」それをきっかけに、極力抑え込まれた黄色い悲鳴があちこちから上がった。どうやら社交界でも注目の的――もちろん良い意味で――であるらしいエリオットが現れたそう。お茶会の場がざわりと揺れる。
そんな明るく華やかな令嬢たちの光景を、クラリスは一人、王城にある空き部屋から見下ろしていた。貴族令嬢たちはみんな楽しげで、彼女たちの周りだけよりいっそう輝いて見えるほど。
そっと、自らの喉に手を当てる。あの中に入りたい、と、幼いころから思っていた。切実な願い。だけど同時に、それはおそらく無理だろう、と、諦めてもいた。喉をさする。決して震えることのないそこを。
目を伏せた。クラリスは、どうしてだか、生まれつき話すことができなかった。産声を上げることもなかったため、出生時はみんなが動揺しててんやわんやだった、と聞いたことがある。つまり、先天的に、肉体的に、声を発することが不可能な身体なのだ。みんなと笑い合うことができない、欠陥品の。
そのときだった。
「クラリス様」
侍女に声をかけられ、ハッ、と我に返る。クラリスよりも明るい髪を持つ侍女――エッタが、にこにこと笑いながらこちらに近づいてきていた。彼女はクラリスがどこを見ていたのかに気づくと、「あ!」と声を漏らす。
「今日は王妃様主催のお茶会でしたね。――って、エリオット様もいるのですか! うう、私も有給取りたかったぁ……」
エッタはわかりやすく意気消沈してみせた。エリオットに話しかけられてうっとりとする令嬢たちを、恨みがましげに見つめている。
エリオットは、王弟であるハルディア公爵の息子で、王位継承権も持つ。おそらくよほどのことがない限り次の国王は彼になるだろうと言われていて、令嬢たちから猛獣のように狙われていた。
――国王の一人娘であり、正当な王位継承者であるクラリスを差し置いて。
多方面へ向けて次々と才能を開花させているエリオットに比べ、クラリスは普通どころか人並み以下のことしかできなかった。刺繍は、まぁ得意。だけどそれ以外はてんでダメで、難しい話は好きではないし、いまいち理解できなかった。ダンスもぎこちなく、楽器もそこそこで、話せないから社交ももってのほか。一人娘ということで両親からは可愛がられているものの、それ以外の人々からはただの穀潰しと疎まれていた。王族の責任も果たせない愚鈍な姫。欠陥品だ、と。
ズキリと胸が痛み、思わずぎゅ、と、胸元で手を握りしめた。自分が何もできない人間だというのはわかっている。わかっているけれど……。
と、そのとき、ぶつぶつと何やら呟いていたエッタが、「あっ!」と声を上げた。
「こうしている場合じゃありません! クラリス様、国王陛下がお呼びです。重要な話だとか」
その言葉に、クラリスはそっと首を傾げた。――重要な話。ちらりと窓の外、お茶会の開かれている場を見る。その中心では、母である王妃がにこにこと笑っていた。その場から離れる様子は一切ない。……ということは、母は呼ばれていないのだろう。重要な話をするはずなのに。母に隠しておきたいことなのか、それとも――
そこまで考え、クラリスはゆるゆると首を振って思考を止めた。考えたところで、自分のことだ、どうせ的外れなことしか思い浮かばないだろう、と、そんな確信に近いものを持っていた。それではただの時間の浪費だ。考える意味なんて、ない。
クラリスはエッタに小さく頷くと、歩き出す。彼女はすぐにクラリスの考えを読み取ったのか、「白鷺の間です」と口にした。おそらくそこで国王が待っているのだろう。
(それにしても、白鷺の間って……)
国王が重要な話――たとえば国家機密に関わることなどを腹心の部下に伝えたりする場である。限られた者のみしか入ることができず、クラリスも入るのは初めてだった。
いったいどんな話が待ち構えているのか。そんなことを思い、不安を胸に抱きながら、クラリスはゆっくりと国王の待つ場へと向かった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「ルーク・アドラン!」
その日、ルークが職場である王城に出勤すると、何故か上司に大声で名前を呼ばれた。上司は王城の入り口の柱にもたれかかるようにしていたようだったが、ルークに気づいた途端焦った様子で駆け寄ってくる。思わず顔を歪めた。
まだ出勤のため、馬車から降りて数歩しか進んでいない。つまり、上司はルークにすぐさま話をするためだけに、ここで待っていたのだと思われる。今までそんなことなどなかったから、おそらくそれほど重要な話なのだろうが……果たしてどんな話だろう?
少しだけ胸騒ぎを覚えていると、上司が目の前に立った。視線をさまよわせながら、声をひそめるようにして――あまり声量は変わっていないが――言う。
「陛下がお呼びだ。――おまえ何をした?」
「……はい?」
ありえない単語が聞こえたような気がして、ルークは目を見開いた。……陛下? おそらく国王陛下のことだろうが……何故今頃になって呼ばれる?
目をぱちくりさせていると、「とにかく!」と上司が言った。
「早く向かえ! 白鷺の間らしい」
「…………は?」
さらにありえない単語が上司の口から飛び出してきた。国王に謁見をするための赤鶫の間ならばわかるが……どうして白鷺の間なのだろう? ルークがかつてやってしまったことは、公にしてはあまりよろしくないこととはいえ、普通白鷺の間に呼ばれることは光栄なことである。国王にその実力が認められた証左だからだ。そのためむしろ国王から見放されたルークをそこに呼び出すのは、あまり良くないはずなのに……。
おかしなことに首を傾げていると、いつの間にか背後に回っていた上司にぐいぐいと押された。強引にでも白鷺の間に向かわせるつもりらしい。
ルークはひとつ、ため息をついた。国王陛下の命令だ。無視するわけにはいかない。
疑問を抱き、憂鬱な気持ちになりながらも、ルークは自分の足で歩き始めた。王城に足を踏み入れる間際、ちらりと空を見上げる。ところどころ白い雲が浮かぶ澄み渡った青空が広がっていた。もしかしたら最後になるかもしれないそれを目に焼きつけて、ゆっくりと向かう。
覚悟は、決まっていた。