第8話 被害届け
九時すぎに千住中央警察署を訪れた英二と初江は、一階の生活安全課に案内された。
生活安全課は、特殊詐欺やサイバー犯罪を取り扱い、暴力団が絡む場合は、組対(刑事組織犯罪対策課)と合同捜査を行う。
英二は担当の刑事に、経緯を詳しく説明する。
刑事は手元の資料と、初江が振り込んだ口座番号を照らし合わせる。
「–––– 残念ですが、お金は昨日のうちに、全額引き出されています」
「……やはり…そうですか……」
予想はしていたが警察に告げられ、詐欺に遭ったことを実感する。
背中を丸め下を向く初江の背中に、英二は黙って手を添える。
刑事が続ける。
「昨日の夕方までに数件の被害報告があったので、金融機関と連携して、詐欺グループの口座はすぐに凍結しました」
「しかし連中は、振込がないかを常にチェックしています。金が振り込まれるとすぐに回収班が複数のコンビニで現金を引き出し、口座に金を残さないようにしています」
「刑事さん、その回収した金はどこに?」
「そのエリアを管轄する番頭がいて、一旦は番頭の所に集まります。その後、番頭から組に上納されますね」
英二は頭の中で話を整理する。
「つまり刑事さん、番頭に集まったところで現金を押さえないと、騙し取られた金を取り戻すことは難しい……」
「ええ。仰る通りです」
「我々も、回収班の受け子を捕まえることはあるんです。ただ受け子は、番頭が誰かも、事務所の場所も知らないので、大概はそこまでです」
「連中は、捜査の手が組に及ばないように、非常に巧妙に、我々の裏を掻いて動きます」
驚くほど機能的に動く詐欺グループに、英二は舌を巻いた。
その後、被害届けの代理申請書に署名をした英二は、初江とともに警察署を後にした。
※※※
同じ日の夜、香織は横尾隆と、銀座のイタリアンレストランに居た。
二人は交際をはじめて一年半になる。
「香ちゃん、なんか元気ないけど、何かあった……?」
「……ごめんね。こんな感じだとつまんないよね…本当は今日、延期にしてもらおうかとも思ったんだけど…ごめんなさい……」
「謝ることないよ。体調悪いんなら、またにしよう……」
香織はしばらく押し黙っていたが、少しづつ、初江が詐欺に遭ったことを話し出した。
「え?」
パスタを取り分けていた隆は思わず顔を上げ、大声で驚く。
「オレオレ詐欺?」
「うん……今朝、お兄ちゃんとおばあちゃんが、警察に行ったの」
「マジか……それで、なんて?」
「……うん、お兄ちゃん携帯持ってないから、詳しく聞けてないんだけど、お金は戻ってこないと思う……」
「言いにくかったらアレだけど、幾ら被害に遭ったの?」
香織が声を落とす。
「……二百万」
「えっ?二百万?……そんな大金が……」
小さく頷く。
「こんな身近で……信じられない……」
「わたしも今も信じられない……おばあちゃんの大切なお金を……」
隆はペリエを一口飲み、「それ、年金機構のリストかも」とつぶやく。
「隆ちゃん、年金のリストって?」
「三年前、日本年金機構がサイバー攻撃に遭って、百二十五万人分の個人情報が盗まれたんだよ」
「あ…それ覚えてる。でも、そんなに?」
「うん。そのうち半数のデータには、住所、電話番号、氏名、生年月日、基礎年金番号が書かれてた」
香織は驚いて、目を丸くする。
「その翌年の二〇一六年だけで、いわゆる特殊詐欺の認知件数が、五千件も増えたんだよ」
「五千件も……」
「そう。ただ、認知件数は、警察に被害届があった件数だから、実際の被害はもっとたくさんあったと思う……」
「じゃあ、おばあちゃんの情報も、その中に……?」
「うん、おそらく……」
「でも隆ちゃん、詳しいね」
「まぁ、この事件は、僕らの仕事では常識なんだよ」
横尾隆は、大手財閥系グループのCSIRTで、外部スタッフとして働いている。
CSIRTはサイバーセキュリティ対策を専門に扱う組織で、近年のサイバー犯罪の増加に伴い、CSIRTを設置する企業が増えていた。
CSIRTは常に最新のインシデント(情報セキュリティの事故)の情報を集め、ハッカーの手口や新種のコンピューターウィルスへの対策を練っている。
「でも、許せないな、その詐欺の奴ら」
「うん、許せない……」
二人は重い空気のまま、レストランを後にした。
地下鉄の入口に向かい、二人が銀座中央通りを歩いていると、往来する車の間を縫うように、キューン!という甲高い機械音が聞こえてきた。
二人が向かい側の道路の方に顔を向けると、中央通りと交差する道路から、ラジコンカーが飛び出して来る。
ラジコンカーは左折し、中央通りを新橋方面に数メートル走ると縁石擦れ擦れでキュッと急停止した。
ラジコンカーは、赤信号で車の往来が止まるとUターンし、クルマの下を縫いながら元のコースを辿り、再び中央通りを左折し縁石に横付けする動きを繰り返していた。
「あれ、すごい操縦テクニックだね!」隆が感心する。
「うん……あ!隆ちゃん!」
香織が隆の袖を引っ張る。
「隆ちゃん、あのラジコンが止まったところ、前に私が話したお店」
香織が指差した店は、中央通り沿いに最近オープンした話題のカフェレストランで、天井から水が流れる大きな一枚ガラスの開放感と、インスタ映えするスイーツで、女性に大人気の店だ。
「わたし、隆ちゃんに肝心な話しするの忘れてた」
「え、なに?」
「今度…隆ちゃんを、お兄ちゃんに紹介したいの」
「あ、本当に?」
「うん。お兄ちゃんは、いつでも会うよって」
「そうなんだ……でも…ちょっと怖いな……」
「–––– え?たしかに、元ボクサーで刑務所にも入ってたけどお兄ちゃんは ––––」
「ちがうちがう!その怖いじゃなくて、香ちゃんの父親代わりの、そっちの意味だって!」
「あ、よかったー」
「うん、ぜひ挨拶させてよ」
「わかった。じゃあ、あのお店で!」
「それはいいけど、大人気なんだよね?席とか取れるの?」
「私が頑張って並ぶから、任せて!」
「わかった。任せた」
父親代わりの英二への挨拶が、二人が結婚に進むための初めの一歩だと、お互いにわかっている。
二人は手をつないで、地下道への階段を降りて行った。