第7話 振り込み
初江は何回目かの電話の呼び出し音で目を覚ました。
昨夜は張り切って料理を作り、久しぶりにお酒も飲んだせいか、疲れが出て仮眠が長くなった。
老眼鏡越しに時計を見ると十二時過ぎだ。
キッチンに行くと英二はまだ帰ってない。
「お昼前に帰るって言ってたわね…」
ひとり言をつぶやき、初江は電話に出た。
「もしもし」
「あ、俺だけど」
「英ちゃん、どうしたの?」
「ごめん…ちょっと事故起こした……」
「え?……事故?事故起こしたの?」
起き抜けの初江は耳を疑う。
「大丈夫なの?」
「俺は大丈夫なんだけど、相手が……」
「ええっ?」
初江の受話器を握る手に、力が入る。
「あ、私、千住中央警察署の者ですが」
「は、はい……事故って……」
「ええ、運転中の人身事故でして」
「運転……あの、英二は?相手の方は……」
初江の手が震える。
初江は、英二が出前中に事故を起こしたと早合点した。
「エイジさんは、危険運転致死傷罪の疑いで、署で取り調べ中です。被害者の方は救急病院に運ばれました」
「危険運転……あの、英二は罪に……?」
気が動転し、膝から力が抜けた初江は、板張りに座り込む。
「ええ、このままでは起訴される可能性が高いです。ただ、被害者側は、示談でも良いと仰っています」
「……あのお巡りさん、示談になれば、その…罪にならないんですか?」
「はい。示談になれば、エイジさんは不起訴で釈放されます。ただ、示談金と被害者の入院費で、二百万円、今日中に必要です」
「…二百万……」
「はい。難しい場合は、エイジさんの拘留が十日間延長され、起訴される可能性が高くなります。ただ、三時までに手続きしていただければ、間に合います」
初江が時計を見ると、十二時二十分だ。
「わ、わかりました」
初江は震える手で、振込先の口座番号をメモした。
十五分後、急ぎ身支度を整えた初江は、箪笥から通帳と印鑑を掴み取ると、駅前の郵便局に走った。
※※※
その頃、英二は汗だくで接客や調理に追われていた。
皿を下げながら柱時計を見ると十二時半過ぎだ。
–––– ばあちゃん起きたかな ––––
英二は十一時前に初江に電話をしかけたが、初江が仮眠していたのを思い出し、電話をかけなかった。
※※※
郵便局についた初江は振込依頼書を持って長机に座り、メモの振込先を書き写す。
すると背後から、「初江さん」と呼ぶ声がする。
近所の鈴木ミヨだ。
鈴木ミヨは初江の隣のパイプ椅子に腰掛けるや、いきなり喋り出した。
嫁の愚痴の話だが、焦る初江の耳には入ってこない。
まだ金額を記入していないが、噂好きの鈴木ミヨに見られることをためらい、ペンを止める。時計はとうに一時を回っている。
「あら!私ったらお金降ろさないと!」
突然手を打ち、鈴木ミヨがCD機に向かう。
初江は慌てて二百万円と書き込んだ。
番号を呼ばれた初江がカウンターに用紙を差し出すと、窓口の女性が色々と質問してくる。金融機関と警察が実施している、オレオレ詐欺を未然に防ぐ活動の一環だ。
隣のカウンターにも、見知ったご近所が居るため、交通事故や示談金という言葉は言いたくない。
初江が咄嗟に適当な理由を伝えると、女性は納得した顔で決済印を貰いに奥に向かった。
十五分ほど経ち、二百万円の振込を終えた初江が時計を見ると、一時半だった。
ほっと安堵した初江を、鈴木ミヨが当然のようにお茶に誘う。
初江が、鈴木ミヨの独演会を聞きながら駅の方に向かっていると、右手に千住中央警察署が見えてきた。
–––– あの中に英二がいる ––––
そう思ったとたん、顔がこわばるのを感じたが、初江は努めて平静を装い、警察署の前を素通りした。
※※※
二時過ぎ、新大久保のオレオレ詐欺の事務所で、西守の携帯が鳴る。
回収班からの報告だ。
「生二本、回収しました」
「わかった。ご苦労さん」
生とは現金の隠語で、一本は百万円のことだ。二本回収とは、振り込まれた二百万円を、早速引き出したという意味だ。
西は煙草に火をつけ深く吸い込むと、達成感に酔った。
百万越えの回収一本ごとに煙草を一本吸うのが、西のマイルールだ。
この日の灰皿は、吸い殻が山のようになっていた。
※※※
三時になり英二は、ラーメン屋の扉に”仕込み中”の札を掛けた。
昼の営業は十一時半から三時までで、夜は、五時半から深夜十一時までだ。
店長と向き合い四角いテーブルに座った英二は、賄いに手を伸ばす。
「久々で疲れたろ?」
店長がノンアルコールビールを注ぐ。
「はい、躰がついてかないです」
苦笑しながらも、英二にとっては心地よい疲れだった。
刑務所では監視されながら、指示された作業を黙々と続けるだけだ。もちろん私語は厳禁で、違反すれば懲罰の対象になる。
自分の裁量で動けるラーメン屋の仕事は、比較にならないほど充実していた。
その時カラカラと扉が開き、大学生風の男の子が入ってきた。
「すいません店長、今から入れます」
急に休んだバイトの大学生だった。
「おい、困るぞ急は。入れんのか?」
「はい、ラストまで大丈夫です。すいませんでした」
「英二、今日はこれで上がってくれ。おかげで助かったよ。山田君も英二にお礼言えよ」
山田と挨拶を交わした英二は店長に、今日は帰りますと声をかける。
「英二、ちょっと待っててくれ」
店長は業務用冷蔵庫を開け、タッパーに何かを詰めている。
ずっしりとしたコンビニ袋を英二に手渡す。
「ウチのチャーシューの塊だ。今日のお礼と梅干しのお礼だ。皆で食ってくれ」
英二は店長と山田に挨拶し、ラーメン屋を後にした。
英二が家に戻ると、待ち構えたように初江が駆け寄り、英二の両腕をぎゅっと掴む。
「英ちゃんあなた、ケガは大丈夫なの……?」
暗い表情で目に涙を浮かべる初江に驚く。
「ああ、ばあちゃんごめん。急にシフト入って」
「そんなことより、ケガは?警察は、もう大丈夫なの?」
会話が噛み合わず、アルツハイマーの症状を疑い、英二は慎重になる。
「ばあちゃん、なんの話?」
言いながら、初江を椅子に座らせる。
「何って、オートバイで人を跳ねて、怪我させたんでしょ?」
「え?ばあちゃん……いったいなんの–––– 」
「警察から電話があったのよ。あなたが事故を起こして、取り調べしてるって」
「ええ?俺はずっと店長んとこで仕事してたよ。出前にも行ってない」
「え?……」
「警察は、ばあちゃんに何て言ったんだ?」
「……被害者の方への示談金と入院のお金で、二百万用意すれば、あなたが罪に問われないって……」
英二はようやく、事態を察した。
「……それでばあちゃんは、二百万、払った?」
初江がうなずく。
「それであなた、釈放してもらったんでしょ?」
「ばあちゃん、俺は……事故も起こしてないし、警察にも捕まってない」
「え?……」
–––– 詐欺だ…… ––––
初江が詐欺に遭ったとわかり、英二は思わずため息を漏らす。
「刑務所から出てきたばっかりの英ちゃんが、もしまた刑務所に入ったら……」
ようやく嘘だったと察した初江は気持ちが混乱する。
「も…もうあなたに、辛い思いして欲しくなくて……」
狼狽える初江の手を、英二はそっと握る。
「ばあちゃん、俺のために……ごめんな……」
英二はそれ以上何も言えず、口をつぐんだ。
※※※
夜になり帰宅した香織が、初江の姿が無いことに気づく。
「あれ?おばあちゃんは?」
「ああ、ばあちゃんは、部屋で寝てる」
英二は小声で、口元に指を一本立てる。
「具合でも悪いの?お夕飯も作ってないし……」
香織が心配そうに聞く。
「まぁ座れ……」
初江がオレオレ詐欺の被害に遭ったと聞いた香織は「えっ?」と驚き、口元に手をやると、まばたきを忘れたように目を見開いた。
「……ひどい……」
香織は唇を震わせると、ポロポロと涙を溢す。
二百万円は、初江が毎月五千円づつ、三十年以上かけて孫のために貯金した金だ。
「……おばあちゃんが、コツコツ貯めてきたお金を……酷い……」
「ああ、俺も許せない。ばあちゃんのお金を、取り戻す」
「え?お兄ちゃん、そんなことできるの?」
「わからない。明日ばあちゃんと、警察に行ってみる」
二人はそれぞれ部屋に戻り床についたが、悔しさで寝付けないまま朝を迎えた。