第5話 懐かしい椅子
板倉ジムを後にした英二は、およそ三年ぶりに我が家に帰って来た。
小さなリビングテーブル一杯に、祖母の初江が腕によりをかけた料理が並ぶ。
「お兄ちゃんは、ここ」
香織が英二を促す。四角いリビングテーブルの南側が英二の定位置だ。
「この椅子、わたしもおばあちゃんも、絶対に座らなかったんだよ」
香織は少し得意げだ。
少しガタついた、懐かしい椅子に腰を下ろした英二は、ようやく、我が家に帰ってきた気がした。
「お兄ちゃんに乾杯!お疲れさまでした!」
「英ちゃん、おかえり」
三年ぶりのビールを一気に喉に流し込むと、喉から躰中に沁みわたる。
「お兄ちゃん、この梅、おばあちゃんが一年前から漬けてたんだよ」
「お、そうか!これこれ」
赤紫蘇の紅が染みたふっくらした梅を頬張る。
梅の酸っぱさが三年の疲れを溶かしてくれるようだった。
ほかにも、鯵のたたき、夏野菜のおひたし、口が味を覚えているお椀など、英二の好きな和食がずらりと並ぶ。
「いただきます」
胸の前で手を合わせ、英二は次々に箸を伸ばす。
「飯は、家に限るな」
刑務所の粗食に慣れた舌には、どれも絶品だ。
英二は汗をかきながら、祖母の手料理を頬張った。
そんな英二の姿を初江は目を細めて見つめる。
二人の母親が、自分の娘がだらしないばっかりに、この子たちにはずっと苦労を背負わせてきた。初江はいつも負い目を感じ、心が苦しくなる。
英二が五歳のころ、生後十一ヶ月の香織を置いて、母と父は行方知れずになった。
それ以来、英二は一度も初江に甘えることなく、香織の面倒を見てきた。
貧乏をネタに虐められた香織が泣いて帰ってくると、英二は相手の家に一人で乗り込み、初江は相手の両親から苦情を受けた。
–––– 香織は僕が守る ––––
口には出さないが、英二はいつも行動で、強い意志を示してきた。
正義感の強い英二は、陰湿な虐めをする連中ともケンカになり、初江は何度も学校に呼び出された。
そんな正義感が仇になり、英二は前科者になってしまったけれど、誰にも恥じることのない、真っ直ぐな人間に育ってくれた。
汗を光らせて美味しそうに料理を頬張る英二の姿に、初江はそっと指先で涙を拭った。
「お兄ちゃん、ラーメン屋さんはいつから?」
「ああ、明日は挨拶で顔出して、仕事は明後日からだ」
「でも良かったね、すぐに仕事決まって」
「そうだな……店長には、感謝しかない」
通常、懲役を受けた者の就職には時間がかかるが、高校のときから英二を雇ってきた店長は復帰を喜び、二つ返事で快諾した。
「香織も仕事の方はどうなんだ?有楽町の」
「うん、順調だよ。良くしてもらってる」
「そうか」
「あら、お爺ちゃんそろそろ帰って来るわね!」
初江は急に立ち上がると台所に急ぎ、皿に取り分けを始めた。
「–––– ばあちゃん?」
祖父は、とうの昔に亡くなっている。
驚く英二を、香織が手で制する。
「え?……いつからだ?」小声で聞く。
「うん、つい最近……でも、徘徊とかは無いし、用意したらすっかり忘れてるから」
いつもの光景に、香織が小さく微笑む。
「そうなのか……俺らがしっかり見といてやらないとな……」
初江の症状は、英二が服役後すぐに現れていた。
医者は、可愛い孫が犯罪者になったショックが原因だろうと説明したが、香織は英二に気を遣い、とっさにウソをついた。
英二のお祝いを終え、初江が床についた頃、香織が英二の部屋の襖をノックした。
「お兄ちゃん、ちょっといい?」
香織は部屋のベッドに腰掛けるも、しばらく黙って下を向いている。
「どうした?」
「疲れてるのにゴメンね」
「気にするな。どうした?」
「じつはね……お兄ちゃんに、紹介したい人がいるの……」
雰囲気を察していた英二は、さほど驚かない。
「そうか……彼氏か?」
こくりと小さく頷き、照れくさそうにはにかむ。
香織から初めて異性の話を聞く英二も面映く、次の言葉をさがす。
「……大事にしてもらってるか?」
「うん、優しい人だよ。ITの仕事してて」
「そうか」
幸せそうに微笑む香織の、膝に置かれた左手の薬指には、可愛らしいシルバーのリングが光っている。
「良かったな香織。いつでも挨拶するから、言ってくれ」
「うん、ありがとう、お兄ちゃん」
いつも英二がおんぶをしていた女の子の香織が、いつのまにか女性になっていた。
自分以外の、香織を見守ってくれる男の存在に、英二は嬉しくもあり、少しの寂しさも感じた。
香織が寝静まったころ、英二はキッチンの冷蔵庫からビールを取り、今度はしみじみと、ひとりで味わった。