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燭蛾  作者: 美輪神 龍也
47/53

第47話 痼

翌木曜日の朝、英二は南千住駅のコインロッカーからバッグを取り出し、自宅に戻った。

本来はラーメン屋の出勤日だが、左腕はギプスで固定してあり左目も腫れて半分塞がっているため、この日は休みをもらっていた。


初江が仏壇の掃除をしていると、英二が「ばあちゃん、ちょっといい?」と襖を開ける。


「ばあちゃん、これ」

正座する初江の膝の前に、二百万円を置く。

「……英ちゃん」

初江が札束と英二の顔を交互に見る。

「返してもらったから。もう、騙されんなよ」

「英ちゃん、あなた……」

「ありがとうございます」

初江は手を合わせ、仏壇の祖父に報告すると、現金を箪笥にしまった。


英二は仏壇の方に座り直し、バッグから何かを取り出す。

「ばあちゃんあと、これ一緒に供えていいかな?」

銀無垢のジッポのライターと煙草のパーラメントを、仏壇に置く。

「…英ちゃん、これは?」

「……俺と隆くんの、命を救ってくれた恩人の形見だ…」

初江は黙ってうなずくと、祖父のお供物そなえものの横にライターと煙草を並べ、線香に火をつけると手を合わせ、英二と共に冥福を祈った。


※※※


この日は隆も有休で休んでいた。

午後二時過ぎ、二度寝から目覚めた隆は、まだ疲れが抜けきれない身体でベッドに腰掛け、昨日のことを思い返していた。


朝いきなりヤクザに捕まり殺される寸前のところを英二に助けられ、英二が治療するつもりで行った病院で香織が意識を取り戻した。

そして、自分でも予想だにしていなかったのに、香織にプロポーズをして受けてもらえた。

たった一日の間に、死を覚悟するほどの絶望の淵に立ち、香織との新しい人生という希望を得た。

昨日のことは生涯忘れないだろうと考えていると、隆はまた眠気に襲われ、ふたたび眠りに落ちた。


※※※


同じ木曜日の午後三時過ぎ、アルバイトの山田が店先に『仕込み中』の札を下げていると、初老の男が、伊吹さんは居ますかと尋ねてきた。

明日から出て来ると思いますと山田が答えると、じゃあまた来ますと男は去って行った。


※※※


翌日隆が出社すると、課長の岡田は朝から離席しており、十時過ぎにデスクに戻ってきた。

「課長すみませんでした。二日も休みを頂いて」

「いや、忙しすぎた疲れが出たんだろう。それより……」

岡田が応接室に行こうと目で促す。


「今朝、急に人事に呼ばれて外してたんだけど……棚橋部長が、辞表を出した……」

「ええっ?部長が?」

「いつですか?」

「実は昨日の午後、人事に持参したようで、人事としてもなんとか慰留しようと保留にしてたんだが、今朝部長から意志は固いので進めてくれとメールが入り、それで人事が私にも連絡してきた……」

「それじゃあ……」

「うん。残念ながら、受理された……」

「そんな……頼りにしてたのに……」

「そうだよな……棚橋部長ほど人柄と専門スキルが揃った人は、なかなかいないよ……やはり、ウチの古臭い体質が合わなかったのかな……」


応接室を出た隆はリフレッシュコーナーに移動して、棚橋の携帯に電話をかけてみたが、何コール待っても棚橋は出なかった。

岡田に辞める理由を確認したが、人事にも一身上の都合としか答えず、誰にも理由が分からないまま棚橋は退職した。

せめて挨拶ぐらいさせて欲しかった。

あまりにも急な退職に隆は不可解な感じを覚えたが、それが何なのか、この時の隆には分からなかった。


※※※


英二は金曜日からラーメン屋の仕事を再開した。店長の配慮で今日は夕方までの勤務だ。


午後二時過ぎの客足が落ち着いたころ、テーブルに着いた男性客に水を出した英二は、その顔を見て驚いた。

ボクシングジムの板倉会長だった。

「英二……久しぶりだな。何年ぶりだ……?」

「板倉会長……」

「手紙読んだぞ。元気そうで何よりだ」

板倉が嬉しそうに微笑む。

「すいません…ご無沙汰してまして……」

「ラーメンセットとビール一本頼むよ」

「あ、はい、お待ちください!」


食べ終えたテーブルの食器を下げていると、板倉に上がる時間を聞かれ、二人は夕方から会うことになった。



北千住駅前の赤提灯で、二人は三年ぶりの再会に乾杯した。

英二が服役中、板倉は一度も面会に訪れなかった。自分の顔を見ると英二が恐縮するだろうとの配慮からだ。

板倉は英二の漢気おとこぎを責める気は一切無く、むしろ英二のことをずっと気に掛けていた。

「会長、あの時は本当にすみません」

英二は両膝に手を付き頭を下げたままだ。

「英二、顔を上げろ。別にお前に詫びてもらいに来たんじゃない」

「はい、すみません……会長、なぜ急に?」

「……英二お前まだ、シャドーしながら走ってるらしいな」

板倉に見られていたのかと英二が驚く。

英二はラーメン屋の行き帰りも、いつもシャドーをしながら走り、一日も欠かしたことはない。

「おととい、うちの選手の飯伏が、千住大橋をシャドーしながら走るお前を見かけてな。飯伏は、お前がパンチングボールの打ち方を教えた子だ」

「あ…はい、覚えてます」

「あの子の目標だったんだよ、英二は。それで、よほど嬉しかったのかジムに貼ってあるお前のポスターの写真を撮って、母親に見せたらしいんだよ……」

「…はい……まだポスターが……」

「そしたら、飯伏の母親が驚いて、この人どこにいるのかって、お礼を言いたいって、大騒ぎだったらしい」

板倉が笑っている。

「お前、本当に変わらないな」

「会長、俺はお礼言われるような覚えは……」

「–––– お前、オレオレ詐欺を阻止したんだろ?それがたまたま飯伏の家だったんだよ」

「あ…」

英二は三件目の舎人とねり駅で、飯伏という家に行ったことを思い出した。マンションに行く途中に、板倉ジムの古い立て看板があった場所だ。

「英二、人助けもほどほどにしないとな。ただ、飯伏の母ちゃんは本当にお前に感謝してるようだ。お礼を受けてやらないと、今度は向こうがすっきりしないぞ」

「はい」

「じゃあ今度ジムに顔出せ。飯伏の母ちゃんも俺が呼んでおく」

「はい、よろしくお願いします」


二人はもう一杯ビールを注文する。

「それとな英二。またボクシングやる気あるか?」

「え?」

「まぁ、聞くまでもないか。シャドーも続けてるし、ムショ暮らしで少し細くはなったが、身体は絞れてる」

「でも会長…俺はもう免許ないですし……」

板倉が英二の肩を分厚い手でバンと張る。

左手に響き英二が思わず顔をしかめる。

悪い悪いと板倉が笑い飛ばす。

「今日答えを出せとは言わない。ただ、心にしこりが残ったままだったら、ちゃんと考えてみろ」

中途半端にボクシングから遠ざかった英二にとって、ボクシングはまさに心の痼りだった。

板倉は英二に、死ぬまでその痼りを抱えて生きて行くのかと問うたのだ。

英二は板倉に心を見抜かれたようで、痼という言葉が心に引っかかった。


その後も二人は夜遅くまで旧交を温めあった。

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