第45話 正しい心
香織は夢を見ていた。
夢の中の香織はまだ三歳ぐらいだ。
月も出ていない真っ暗な夜、一本の街灯だけが公園の入口を照らし、香織以外に周りには誰も居ない。
公園のジャングルジムから降りられず、心細くなった香織は、お兄ちゃんお兄ちゃんと英二を探している。香織がしばらく泣いていると、街灯の向こうから小さな人影が近づいてくる。
まだ七歳の英二が香織を探しに来たのだ。
お兄ちゃん!
香織からは公園の前で辺りを探す英二が見えているが、英二は香織に気付かない。
お兄ちゃん!ここだよ!
英二はふと足を止めて公園の中に顔を向ける。
だが、まだ香織に気付かない。
「お兄ちゃん!お兄ちゃん!助けて!」
香織が大声で泣き叫ぶと、はっとした英二が「香織!」と叫びながら走って来る。
ジャングルジムを猛然と駆け上がる。
ベッドの傍でウトウトしていた初江がふと目を覚ますと、香織がうっすらと汗を掻き険しい表情を浮かべている。香織が意識不明になってから、はじめて見る感じだ。
「香ちゃん……?香ちゃん!香織っ!」
初江が身を乗り出して香織の手を取る。
香織は右の手のひらで、撫で守りをぎゅっと握りしめている。
夢の中でジャングルジムを駆け上がった英二は香織を抱きしめ、頭をぽんぽんと撫でる。
「香織、大丈夫だよ。もう泣かないの」
香織がうんと頷き嬉しそうに泣き笑う。
息で白くなる酸素マスクの中で、香織の唇が微かに開く。
……おにい、ちゃん……
医療機器の音に混ざり、はっきりとは聴こえなかったが、たしかにそう呟いた。
初江は急いでナースコールを押し、香織に呼びかける。
「香織!おばあちゃんよ!香織!」
香織の固く閉じた瞼のあたりを、じっと見守る。
「……う……うん……」
ゆっくりと瞼を上げた香織は、しばらくそのまま薄目で天井あたりを見ている。
およそ一か月ぶりに光を感じた香織の眼には天井のライトが幾重にも滲んで、ぼんやり見えている。
「香ちゃん……」
初江が小声でささやくように声をかけると、香織は、首の動きを確かめるように、ゆっくりと初江の方に顔を向けた。
「……おばあちゃん……わたし……?」
今度は、はっきりと言葉に出したが、目に戸惑いの色を浮かべる。事故で意識を無くしていたことを、すぐには思い出せない。
「……香ちゃん、よくがんばったね……」
声を詰まらせた初江は、両手で香織の手をさすりながら、ただ涙をぼろぼろと零した。
※※※
意識が遠ざかる英二に「お兄ちゃん!お兄ちゃん!助けて!」香織が助けを求める声が聴こえた。
泣き叫ぶ香織の声が英二に届くと、止まっていた英二の心臓が、ドクンドクンと再び脈を打ち始めた。
大川が西の銃を拾い上げ隆に狙いを定める。
隆は恐怖で足がすくみ壁を背にして動けない。
大川の右足首を英二の右手ががしっと掴む。
「まだ……終わってないぞ」
大川は驚いて足を払うと身体を反転する。
英二が頭を振りながらゆっくりと立ち上がる。
鉄の味がする唾を吐き、英二は少し肩を丸め左右の拳を胸の前に斜めに構える。
銃を投げ捨てた大川は、膝を九十度近く曲げた右足を前に出し左足を後ろに引くと、拳を身体の幅で構えて英二に正対する。
お互いに間合いを読み、じりじりとひりつくように空気が張り詰める。
英二は視界全体で大川の身体を捉え微かな動きに備える。大川の長いリーチに警戒する。
空気がふと動き大川が前に出ると正拳突きを連続して繰り出す。
英二は素早く右足と顎を引きスウェーバックで拳を躱すと一瞬の隙に右足を一気に踏み込み、その反動のまま大川の顎に右ストレートを叩き込む。
衝撃で大川の首が右に捻れ膝を落とす。
状態を左後ろに捻った状態の英二は戻す反動で左ボディーブローを大川の右脇腹にぶち込む。
大川の頰が丸く膨らみ、堪らずぶはっと唾を吐き出す。
英二が続けて放った右ボディーブローを大川が左の手刀で叩き落とす。英二の右手首に鉄で叩かれたような衝撃が走り肩まで痺れる。
英二が距離を取ろうとステップバックすると同時に、大川の右回し蹴りが空気を唸らせ左斜め上から英二に迫る。避けきれないと察し、英二は咄嗟に左上腕でブロックする。
手首に繋がる尺骨にビシッと亀裂が走る。
顔をしかめた英二に大川がニヤリと笑い、左の手刀で英二の鎖骨を叩き右の肘打ちを英二の左顔面に突き刺す。
英二の左瞼がパクっと切れ血が溢れると、瞼が空気を入れたように膨らみ視界が半分になった。
大川は次に英二の右目を塞ぐ気だ。
英二は使えない左眼を閉じ、空気の微かな動きに全神経を集中する。
大川は獲物を仕留める獣のごとくペロリと舌舐めずりをし、英二の死角から右回し蹴りを繰り出す。微かな空気の軌道を読んだ英二は瞬時に右に大きくステップインし間一髪躱す。
英二が右からワンツーを打とうと左腕を引く。
大川が英二の右腿裏に左下段回し蹴りを叩き込み、右脚が跳ね上がった英二が左によろける。
大川はボクサーの武器であるフットワークを殺しに掛かっていた。
空手と組むのが初めての英二は、蹴りと距離感に翻弄される。
英二が踏み込むと大川は前蹴りを突き出し、思うように懐に入れない。
半端な距離に立つと左右から繰り出された蹴りが太腿を削る。大川の狙い通り英二の左右の太腿は内出血で青紫に膨れ上がり、鉛を巻いたように足が上がらなくなる。
勝機と見た大川はすっと前に出るや、上段、中段、顎と次々と正拳を打ち分け英二のガードを上半身に集中させる。
瞬間、ガラ空きの左脇腹に強烈な横蹴りを撃ち込まれた英二は躰が横にくの字に折れ息が止まる。
間髪入れず大川が渾身の左回し蹴りを打とうとしたとき、右足が床の血で滑り狙いが狂った左の蹴りが空気を裂く。
英二は左足で床を蹴り大きく右にステップインすると、大川の体臭が匂うほどの至近距離に詰め、地の底から這い出たような右アッパーを大川の肋骨と腹の隙間に天井まで突き上げ手首まで大川の腹にのめり込ませた。
大川の肝臓がゴムボールのように横に潰れ、視界の外側から白い点がチカチカと黒目を覆い、強烈な吐き気が一気に込み上げて来る。
全身の力が放電したように抜け、イメージ通りに身体の動きが付いてこない。
大川はじわじわと英二の動きを削ったが、英二は一撃で大川の動きを止めた。
英二は足を止め顔面への左フック、左ボディー、右ストレート、右アッパー、左フック、右ストレート、左フック、左ボディー、そして狙い澄ました弾丸のような右ストレートで大川の顳顬を撃ち抜く。
大川の汗が四方に飛び散り、白目を剥きながら床に引き寄せられるように大川はどさっと倒れた。
ふーっと大きく一息吐き、英二は隆に走り寄る。隆の膝が微かに震えている。
「もう大丈夫だ、隆君」
隆はただ黙って、唇を震わせる。
「…い……いぶき…さん……」
英二が振り返ると虫の息の西がニヤリと笑っている。英二が駆け寄り西の首の下に右腕を差し入れ顔を近づける。
西は口から泡のような赤い気泡を垂れ流し、目は穏やかに笑っている。
「あ、あんた……やっぱり……強え…」
「もういい。西さん、もうしゃべるな.……」
「いぶきさん……聞いていいか……」
英二が眼で頷く。
「…あ、あんたの恐いもの……聞いてねえんだよ……」
「おまえ、そんなことが……」
西が答えを待つ。
「西さん。俺が恐いのは、正しい心を無くすことだ」
西が、光が消えそうな両眼で、じっと英二の両眼を見る。
「……オレは…無くした……」
英二が首を左右に振る。
「西さん……無くしたら、また取り戻せばいいんだよ。あんたにも出来たじゃないか……」
驚いた顔で微かに頷いた西が、嬉しそうに目を細め、目尻から一筋の涙を零す。
「いぶきさん……あんた、らし……………」
西は英二の腕の中で、あまり幸せじゃなかった人生を、終えた。




