第40話 拉致
沖縄に上陸した台風一七号の影響で、夜半から激しい白雨が降った。
雨上がりのどんよりと曇った朝九時前、
「ばあちゃん、十一時に病院で」
初江に告げ団地の階段を降りた英二は、薄曇りの空を見上げ、一つ深呼吸をした。
湿気を含んだ濃い緑の匂いを吸い込んだ英二は、壁に貼りつく一匹のヤモリに気づいた。
出所の日、指先から逃げたヤモリがトラックに轢かれて以来、あまり良いことがない。
少し躊躇しながら、ヤモリの鼻先にそっと指先を差し出すと、ヤモリは英二の掌を伝い、二の腕にぴたりと貼りついた。
英二はそのまま南千住に向けて、シャドーをしながら走り出した。
北千住から南千住に架かる千住大橋を走っていると、向かいから走ってきたジョギングの若者が足を止めて、走り去る英二の後ろ姿をしばらく見ていた。小首を傾げた若者は軽くシャドーをしながら、北千住方面に再び走り出した。
西が潜伏している南千住のビジネスホテルに着いた英二は、五〇二号室のドアをトントントン、トントンと五回ノックする。
しばらく待つが返事が無い。
ロビーに降り、フロントに足を向ける。
「知り合いの者ですが、五〇二号室は?」
「はい、お待ちください……」
「…五〇二号室は、昨夜チェックアウトされてますね」
「チェックアウト?……」
「あの…失礼ですけど、伊吹様でいらっしゃいますか?」
「ええ、伊吹です」
「念のため身分証はお待ちですか?」
英二は免許証を見せる。
「西様から、こちらをお預かりしています」
スタッフは英二にホテルの封筒を手渡した。
英二がロビーのソファーに座り、糊付けしてある封を開くと、ホテルの便箋に書いた手紙が入っていた。
『伊吹さん、お世話になりました。
あんたのことは、忘れないと思う。
オレオレ詐欺で伊吹さんのばあちゃんの
大事なお金を騙し取ったのは俺です。
ばあちゃんには、本当にすまないことをした。
謝ります。
金を置いときます。
ばあちゃんに返しておいてください。
南千住ロッカー二四番
西守 』
英二は封筒の中身を確認したが、ロッカーの鍵は入っていなかった。たぶん入れ忘れたんだろうと思い、英二は苦笑した。
–––– あいつが番頭だったのか ––––
西と遭遇してから予感はあったが不思議と怒りは湧かなかった。家庭に恵まれずどこか卑屈な西に同情していたのかもしれないし、五歳のときに蒸発した両親を恨んだ自分も、一歩間違えたら西と同じように世の中を恨んで生きていたかもしれない。英二はそんな西をどこか憎めずにいた。
そして英二は、西がリンの復讐に向かったことを察して、両手でぎゅっと手紙を握りしめた。
壁の時計に目をやると午前十時を回っている。
英二は初江と隆が待つ病院に向かった。
※※※
同じ日の午前十時少し前、四菱重工の取締役武藤は、プロジェクトの会議室で一本の電話を待っていた。
山積みだった資料は綺麗に無くなり、ロの字に配置した長机では、総勢四十名近くのスタッフが、緊張した面持ちで固唾を飲んでいる。
十時に電話が鳴れば、四菱重工がF36を落札したことになる。反対に落札出来なかった場合は、メールで落札不可の通知が来る。
武藤はまるで祈るかのように、長机に両肘をつき、組んだ拳に額を当てている。
壁時計の針が十時丁度を指し、秒針が一つづつ左回りに進んでいく。
三十秒が過ぎ、落胆の空気が流れかけたとき、静かな空気を裂くような着信音が、けたたましく鳴り響いた。
三コール待つ間に小さく息を吐いた武藤が受話器を取る。
皆、武藤の電話が終わる瞬間を見守る。
「–––– はい。よろしくお願いします」
ゆっくりと受話器を降ろした武藤がすっと立ち上がり、落ち着いた声で、
「F36ライトニング、落札だ」
発した瞬間、会議室がワッと湧いた。
全員が立ち上がり、ワールドカップ日本代表がコロンビアを破ったときのような歓喜の渦が起こる。
武藤も隣の三沢部長と橋本課長と、固く握手を交わす。
しばらく待ち、皆が落ち着いたころを見計らい、武藤がぐるりと全員を見渡す。
「皆んな、良く頑張った。日本初、最新鋭戦闘機のエンジン供給だ」
言いながら武藤の唇がかすかにわななく。
「今日は皆、家庭に帰るなり、遊びに行くなり、ゆっくりと休んでくれ。私も久しぶりに、妻を労いたい」
何人かが武藤の気遣いに涙ぐむ。
「それと……戦闘機のエンジンを供給することは私の長年の悲願だったが、戦争の道具を提供することに、割り切れない気持ちがあったことは確かだ。これは、敗戦国に生まれた者だからこその感情かもしれない」
三沢と橋本が、何を言いだすんだと驚き武藤を見る。
「しかし、日本にとっての戦闘機は、戦争のための道具では無く、防衛のために必要な道具だと、このプロジェクトを始めて、あらためて確信した。……防衛とは、皆さんの大切な生活、家族、大切な人を、脅威から守ることだ。だから皆さんも、我々の今日の成果を、自信を持って大切な人に伝えて欲しいと思う。解散」
自然に拍手が起こり、達成感と安堵と感動とが混ざった拍手がいつまでも鳴り止まなかった。
※※※
十一時過ぎ、英二と初江は聖路加中央病院のロビーで、隆が来るのを待っていた。
昨夜英二が、明日は香織の彼氏も見舞にくるからと伝えたせいか、初江はめったに袖を通さないお出かけ用の服を着ている。
電車が遅れているのかもと、英二は隆を弁護するように説明し間を埋めていたが、ロビーのデジタル時計は十一時十六分になろうとしている。
「……ばあちゃん、悪いけど先に行っててくれる?俺はもう少しここで待つから」
隆が連絡もせずに遅刻するタイプじゃないことは分かっている。
しかし、SMSのメッセージに返信は無く、電話を掛けてみるも隆は出なかった。
その後も十分ほど待った英二は、先に行ってますとメッセージを送り、病室に向かった。
※※※
一時間前の十時過ぎ、豊洲のマンションを出た隆は、地下鉄有楽町線の豊洲駅に向かっていた。
大学から豊洲に住んでいる隆にとって、病院がある築地は庭のようなものだ。香織と場外市場の朝市に行ったこともある。
築地までは、豊洲から二駅の新富町で降りて徒歩五分ほどだから十時四十分には着く計算だ。
初めて香織の祖母に会う隆は、前の晩に着る物でさんざん迷ったが、結局は普段通りの格好に落ち着いた。
地下鉄のマークが見えてきたとき「あの、すいません…」と車道側から男性に声をかけられた。
隆が振り返ると、路駐している黒いバンの助手席から男が顔を覗かせている。
「お兄さん、地元の方ですか?」
「あ、はいそうですけど」
「じつはグルメ番組のロケハンしてて、この辺りで人気の店を聞き込みしてまして」
「ああ…あの、余り時間無いので手短になら……」
「助かります!直ぐにすみますので」
男が助手席から歩道に降りると、後部座席から別の男も降り、二人が隆を挟むように立つ。
「えっと…何系のお店で––––」
隆が右の男に話しかけた途端、左の男がタオルで隆の口を塞いだ。
「…うっ!………」
隆は反射的にタオルを掴み取ろうとしたが、クロロホルムが効いて急速に全身の力が抜けていく。
「…う…う………」
「おい、早くしろ!」
二人の男はぐったりと目が虚ろになった隆を、乱暴に後部座席に押し込むと急発進し水飛沫をあげてその場を走り去った。
濡れたアスファルトについたタイヤ跡に、ポツポツと雨が落ち始めるやざあっと降り注ぎ、駅に向かう人の足を急がせた。
墨が滲んだような重い雨雲が空一面を覆い尽くし、土砂降りの雨がタイヤの跡を搔き消すように地表に叩きつけた。




