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燭蛾  作者: 美輪神 龍也
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第4話 事故

「英二が来たのか?」

手紙を受け取った板倉会長が、驚いた声を上げる。

「あ、はい…すみません……」

板倉の様子に、女性が思わず謝る。引き止めなかったことを責められた気がしたのだ。


 板倉は手紙に目を落とす。

服役中に、出所日を告げられた英二が刑務所で書いたものだ。

板倉に世話になったことへのお礼や、大切な試合を流してしまったことへの詫びが綴ってあった。


 板倉の脳裏に、三年前の事件が蘇る。


※※※


英二は中学生で新聞配達を始め、収入は全て生活費に充てていた。

その後公立高校に進学するも、祖母の初江が体調を崩したことで家計が苦しくなり中退した。高校を中退した英二は、朝は新聞配達、その後は深夜までラーメン屋で働き、三人の生活を支えた。生活することが精一杯で、将来の夢も希望も無かった。


ある日の休憩中、客用に置いてあるボクシング漫画をたまたま読んだ英二は、一気に夢中になった。

『あしたのジョー』や『がんばれ元気』など、貧しくても努力と根性で夢を掴む主人公と、自らを重ねたのだ。

俺もボクシングで稼いで、香織とばあちゃんに、立派な家を建てる。

入会金と会費を貯めた英二は、二十歳のときに、板倉ジムの門を叩いた。


中学時代から走って新聞配達をしていた英二の足腰は強く、ラーメン屋の四十度を超える厨房での仕事が強靭なスタミナを養っていた。

ジムに通い始めて二年でプロテストに合格した英二は、二十四歳の時に、ライト級日本チャンピオンへの挑戦権を得た。

夢への階段を登りだした。


試合の日程も決まり調整を続けていたある日、しかし事件は起きた。


ラーメン屋の仕事を終えた深夜、家に向かっていた英二は、「キャー」という悲鳴を耳にした。

英二が駅裏の路地に向かうと、二人の男が若い女性に絡んでいる。

OL風の女性は香織と同い年くらいで、左右を刈り上げた短髪の男とでっぷり太ったジャージの男が、壁を背にした女性を囲むようにしている。

「おい、なにやってる?」


「あ?なんだてめぇ?」

背後から声をかけた英二に、右側の短髪が振り向く。酔った目で凄む。

二人の男の隙間から涙ぐむ女性の顔が覗く。

英二は強引に男の間に割って入り、女性の前に立つ。

英二が肩越しに女性に聞く。

「知り合いか?」

女性はぶるぶると顔を横に振る。

「あんたら、ちょっと飲みすぎじゃないのか?」

英二は女性の右の手首をつかむと、二人の男の間を割って連れ出す。

「おい!」

ジャージの男が英二の肩を掴む。英二は振り向きざまに手を振り払う。

「てめえ…」

英二が女性の前に立ち、二人の男と正対する。

「駅前の交番に行け」女性を促す。

頷き小走りに駆け出した女性の後を短髪が追う。

「もうよせ」

英二が短髪の左肩をぐいと引っ張る。

「チッ!」

短髪は英二の右手を払いのけ胸倉を掴むと頭をのけぞらせ、反動をつけた頭突きを英二の鼻頭に叩き込む。

咄嗟に鼻を押えた英二に短髪が右のパンチを突き出す。

上体を逸らしスウェーでける英二。そのまま回り込み女性の前に立つ。

短髪が目をき大振りの右を放つ。

英二は素早く腰を落とし、低い姿勢のファイティングポーズで構える。

英二の髪の毛を短髪の右腕がかすめた直後、反射的に繰り出したワンツーが、男の右顎と左頬骨を弾く。

一瞬のことに短髪は狼狽え、二、三歩後ずさる。

「早く行くんだ」

英二が背中の女性に顎で促す。

「てめぇ!」

男が眼を細め、ナイフを抜く。

「おい、やめとけ」

男が刃先を突き出す。

半身でかわした英二の右ストレートが男の頰に食い込む。男がよろける。

「キャー」

ジャージの男が、駅に走る女性に掴みかかる。

きびすを返した英二が、すかさずジャージの肩を掴む。

「おい、やめろ!」

「チ!ウゼェ!」

振り向いたジャージの右拳が空を切る。

頭を下げた英二がジャージの右脇腹に、強烈な左ボディを二発、叩き込む。

「う…!」ジャージが一瞬固まる。

「早く警察に行くんだ!行けっ!」

英二の気迫に女性が駅の灯りの方に走る。

ボディを喰らったジャージがよろよろと後を追う。

英二が遮り左ジャブで動きを止め、右ストレートでこめかみを撃ち抜く。

脳が揺れたジャージは白目を剥き足元がおぼつかぬまま、糸が切れたようにどすんと尻餅を着く。

「てめぇ!」

背後から短髪が、刃先を突き出し飛び込む。

英二は身を反転しかわすが、足元のジャージにつまずき、短髪ともつれたまま、どさっと後ろに倒れ込む。

「う……!」

手に嫌な感触がした英二は、上になった短髪と自分の躰の隙間に目をやる。

短髪の鳩尾みぞおちの辺りにナイフが突き刺さり、その手を英二の両手が掴んでいた。

英二は上半身を起こし覆いかぶさる短髪の下から抜け出る。

うつ伏せの短髪は苦悶に眉間をしかめ、「うう……」と呻く。

「おい!大丈夫か!」

下になっていたジャージが意識を戻し、

「あ、あ……」と狼狽うろたえる。

英二の右手は血の付いたナイフを握っていた。


「大丈夫ですかー!?」

駅の方から警官が二人駆けつける。



ジャージの男が英二が刺したと証言し、英二は傷害罪で起訴され、懲役三年の実刑判決となった。

プロボクサーの免許も剥奪され、板倉ジムは相手のジムに、違約金を支払った。


※※※


手紙を読み終えた板倉は、おもむろに事務室を出ると、入口の脇に貼ってある大判のポスターを無言でみつめた。

後楽園ホールのリングを背景に、二人のボクサーが拳を構える。

右にチャンピオン、左に英二。

拳を構えた英二の眼は、真っ直ぐに未来を見据えていた。

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