第36話 出頭
翌日の昼前、隆が待ち合わせの喫茶店に入ると、早めに着いた棚橋がすでにコーヒーを飲んでいた。
「部長急にすみません、日曜日なのに」
「いや、予定も無かったし気にすることない」
隆は座りごこちの良いソファに腰掛け、感嘆したように店内をぐるりと見廻す。
クラシックが流れる店内は、木目調のシックな調度品と上品な客層が、上質な雰囲気を醸し出している。
「さすが白金ですね。洒落た造りですね」
「そうだな。この辺りはこうした落ち着いた感じの店が多いよ」
白金は東京でも屈指の高級住宅街だ。
「部長はこのお近くなんですか?」
「ああ、まぁ私は質素なマンションだよ。それより横尾君、相談というのは…?」
「はい、じつは昨日から、ログの分析を始めたんですが、その件です」
「なるほど。四菱自動車のログ解析か」
「いえ、自動車では無くて、重工、商事、銀行の三社です。もちろんまだ全然進んでませんけど」
棚橋は驚いたような意外な顔をする。
「横尾君、今重要なのは、四菱自動車やクレイオスのハッキングの証跡を証明することだろ?社長命令でもあるし」
「はい、もちろんです。そこは先週から岡田課長や自動車の情シスが始めています」
「うむ。あと横尾君は内部監査の準備でも、相当忙しいだろう。もちろん、その三社もおいおい手を付ける必要はあるが、今の最優先は自動車だろう」
「ええ、僕もそのつもりで、三社のシステムへの調査を進言して、少し前に承認を頂きました。ただ部長……僕は、argusの狙いがじつは自動車じゃなくて、初めから自動車以外が狙いだったんじゃないかって、思うんです」
「…どうゆうことだ?」
「……部長もご存知のとおり四菱自動車は、クレイオスの事故対応で、通常業務が混乱するほどの騒ぎになっています。そして四菱自動車だけじゃなくて、グループ会社の監査が出来る人材、つまり情シスのスタッフも自動車に応援に出ています」
「うむ、それは私も知っている」
「はい。今、四菱自動車の情報セキュリティ体制は、ヒト、モノ、カネ全ての面で、手厚くなりつつあります。ただ、その一方で、自動車以外の他社のセキュリティ体制は、手薄になっています……」
棚橋は腕組みをし、難しい顔で天井を見る。
「……なるほど、横尾君が言いたいのは…argusは、真のターゲットのセキュリティ体制を緩くするために自動車を攻撃したと、こういうことか?」
「はい。自動車は、本来のターゲット企業をハッキングするための踏み台にされたんじゃないか、そう思っています。そして、argusのターゲットが何処かを絞り込むための、ログ解析です」
「……うーん、さすがに考え過ぎじゃないのか?」
「ええ、もちろんそうかも知れません……ただ、最初の事故が、僕の彼女が巻き込まれた銀座の歩行者天国、次が、渋谷のスクランブル交差点、名古屋駅前、大阪梅田、博多駅前です。それも週末の人手が多い時間を狙って、まるでテロのように事故を仕掛けています」
腕組みをした棚橋は、黙って耳を傾ける。
「しかも世界最先端の自動運転車が起こした事故……当然、世間の目も警察の目も釘付けになります。実際に警察は、テロの線でも捜査を進めているとも聞いています。もし、argusの思惑通りに警察も世間も翻弄されているとしたら、argusは我々の目を引きつけた裏で、すでに他の仕掛けを始めている……もちろん、僕の仮説に過ぎませんが……」
「そうか……さすがに、私は何とも言えないが……」
「はい、もちろんそうだと思います。それよりも部長にアドバイスをお願いしたいのは、ログ解析についてで––––」
隆は考えているログ解析の方法を棚橋に説明し、もっとも効率良く、高い効果が期待できるようにアドバイスを求めた。
「部長、ありがとうございました」
「いや、なかなか鋭いところに目を付けてる。感心したよ」
「いえ、とんでもないです!部長の知識に比べたらまだまだです」
「それと、ログ解析の状況は私にも共有して貰えると助かる」
「もちろんです。まだ勉強不足の点もありますから、また相談させてください。今日はありがとうございました」
棚橋と別れた隆は香織を見舞うため、その足で築地に向かった。
※※※
その日の夕方近く、品川区の三田中央警察署に一人の若者が出頭し、自分はargusで、四菱自動車へのサイバー攻撃は自分がやったと自供した。
三田中央署が大至急、高山洋介と名乗る男のアパートを家宅捜査したところ、自動運転車に関する専門書やargusの由来と思われるギリシャ神話の人名辞典、そしてパソコンからは、ダークウェブ専用のブラウザソフトやクレイオスの設計図など、確定的な証拠が多数発見された。
夜九時過ぎに警視庁は臨時会見を開き、集まった報道陣にargusを検挙したと発表した。
argus検挙の速報は、瞬く間に世界中を駆け巡った。
※※※
自宅のワンルームマンションで、見るとはなしにテレビを点けていた隆は、速報のテロップを見て目を疑った。
–––– argusが検挙された? ––––
隆が慌ててチャンネルを回すと、NHKだけがニュース番組で報道している。
解説委員が、『私も驚きましたが、これで一気に解決に向けて進みだしました』と発言している。
–––– なにを言ってるんだ……完全犯罪を唯一完遂できるのがハッカーの醍醐味じゃないか……仮に、完全犯罪を世間にアピールしたい自己顕示欲が強い奴だったとしても、別の手段を取るはずだ。ハッカーが、出頭なんかする筈がない! ––––
隆がすかさず”argus”でネットを検索すると、書き込みが続々とアップされてくる。
–––– 高山洋介いくら貰った?ww
–––– みえみえの囮
–––– お巡りさーん、騙されちゃダメだよーwww
一部には隆と同じ違和感の発言もあったが、ほとんどのネットニュースは、argus検挙の報道で埋め尽くされていた。
–––– またargusが世間を欺いた……これで警察も世間も、クレイオスの事件が解決に向かうと胸を撫で下ろし油断する……
–––– argusは間違い無く、何かを狙っている……
ただ、それが何なのかわからずに、隆は頭を抱えた。




