第35話 コップの水
リンの死から三日が過ぎても、西は南千住のビジネスホテルに潜伏していた。
リンが殺された翌日、新聞の三面記事に、新宿区上落合で発砲事件との小さな記事が載ったが、血痕だけを残して遺体は不明とあった。
リンの遺体は、新道組が死体処理専門のスイーパーを雇い、始末していた。
–––– リンを無縁仏にしやがって……あいつら絶対に許さねえ……
ベッドの下から銃を取り出し、弾倉の弾数を確認する。
同じ頃、受付のスタッフがチェックアウトの客の対応をしている前を男が通り過ぎ、エレベーターに乗り込むと、西が泊まっているロビーの階数を押した。
コンコンコン、コンコンと五回、男がドアをノックする。
英二と決めた合図だ。
西は銃を戻しドアを開け、英二を部屋に入れる。
「これ、昨日の残りもんだ。食べてくれ」
ラーメン屋の出勤前、英二は差し入れを持ってきたのだ。
「どうだ?怪我は」
英二は差し入れの袋を冷蔵庫に入れる。
「ああ、腫れは引いてきた」
「そうか」
「……伊吹さん、あんた…何で俺に親切にしてくれるんだ?」
「あんた、そんなこと気になるのか」
「それはな、ふつう気になるだろ?」
「そうか……単に、大事な彼女があんな目に遭ったあんたを、放っておけなかった。それだけだ」
「……あんたみたいな奴、初めてだ」
「そうか……単なる俺のエゴだよ、西さん」
煙草を咥えかけた西が手を止める。
「エゴ?どうゆう意味だ?」
「まぁ、あんたに頼まれたわけじゃないし、俺の性分でやってるだけのことだ……」
英二は苦笑すると、仕事があるからと部屋を後にした。
昼前、英二が差し入れたコンビニ袋の中を見ると、二つ並んだ二段のタッパーが入っていた。
西が四つのタッパーを取り出しテーブルに置いたとき、一緒に手紙のような物が落ちた。
おもむろにそれを開く。
––––
拝啓
盛夏の候、ますますご壮健のこととお慶び申し上げます。
いつも英二がお世話になりまして、ありがとうございます。
心ばかりの粗末なお口汚しにて失礼いたしますが、お口に合いましたら幸いです。
暑さ厳しき折、くれぐれもご自愛ください。
敬具
––––
初江が添えた、達筆の一筆箋だった。
–––– オレが二百万を騙し取った相手とも知らずに、馬鹿じゃねえのか?こんなんだから、騙されんだよ。
悪態をつきながらタッパーの蓋を開け、ふっくらとした梅を口に放り込む。
まだ傷だらけの口内の粘膜に、梅の酸がじんじんと染みる。
数週間前、三年ぶりにばあちゃんの梅を食べた英二が、丹精込めた味わいにほっとしたように、西も初江の梅干しを味わった。
–––– あいつら、こんなオレに馬鹿じゃねえのか……
何の見返りもないだろうが……
西はいつしか泣きながら、初江の手料理を掻き込んでいた。
※※※
「課長遅くなりました」
土曜出勤した隆が岡田に声をかける。隆は今朝香織を見舞い、そのまま出社していた。
「いや、ご苦労さま。しかし今日は休出組が多いよ」
四菱ホールディングスでも、平日はクレイオスの事後処理に追われて、残業や休出で本来業務の穴埋めをする社員が多く、またマネージャークラスは、社長命令の情報セキュリティ内部監査に備えて休出する者が多かった。
「課長、自動車の深堀分析は、その後どうですか?」
「そうだね、自動車の情シスと連携して、なんとか進めてるよ。彼らも意外と協力的でね」
「そうですか。それは、社長のトップダウンの効果ですね」
「ああ、私もそう思う。内部監査は正直大変だけど、CSIRTにとっては追い風だよ。横尾くんも今日は監査関係?」
「はい、それと、他の関連会社のセキュリティチェックの両方です」
「あ、たしかに。そっちも宜しく頼むよ」
隆は四菱HDのCSIRTとして正式に、グループ企業の情報セキュリティの診断を上申し、承認を受けていた。自動車の社長命令が発令された後だけに、すんなりと申請が通った。
「横尾君、ランチの時間だよ」
岡田に声を掛けられて、隆は初めて十二時を過ぎたことに気づく。
「課長、僕はラウンジに行きますけど」
「私はこれ、愛妻弁当。ここで食べるよ」
隆が二十八階のラウンジに行くと、土曜日なので食堂は休みだったがカフェコーナーは開いていた。隆がサンドイッチを持って席を探していると、窓際のテーブルに田中奈々を見つけ、同じテーブルに着いた。
「田中さん、新卒なのに休出?」
「はい、まだ仕事の要領が悪くて」
「頑張ってるね。そういえば…その後はargusからメール来てないよね?」
「はい、来ていません。私もインフォメールチェックするときに、まっさきにargusで絞り込みしてますけど、無いですね…」
「そっか……まぁ来ないに越したことはないよな……」
「はい。二回目の大事故のあとは、もうドキドキしてインフォ見るのが毎朝憂鬱でした」
隆がふと手を止め、浮かない顔でそうだよねと呟く様子が、田中は気になった。
「…横尾さん、なにか…気になるんですか……?」不安げな面持ちだ。
「あ、いや…あくまで僕個人の意見だけど……argusの狙いは何だったのかって考えると、すっきりしないんだ」
「…狙いですか……狙いは、沢山の人を酷い目に遭わせることとか、四菱自動車への怨みとかじゃないんですか?」
「うん、愉快犯か怨恨。たしかに、警察のサイバー犯罪対策課もその線で捜査を進めてるって、うちの課長が言ってた」
「そうですよ。だから、犯行予告まで送ってきて、四菱自動車とか世間が大騒ぎになってるのを楽しんでたんじゃないですか?ホント、サイテーな奴ですよ!許せないです!」
田中は少し興奮気味に手をオーバーに動かし、コップの水をひっくり返した。
同時に、ガシャーン!ガラガラ!と、背後から皆が振り向く大きな音がする。
隆が咄嗟に目を向けると、ランチプレートの山に誰かがリュックを引っ掛けて、派手に横倒しにしていた。引っ掛けた社員らしき男が、床に散乱したプレートを慌てて棚に戻している。
「横尾さん、水掛かってませんか?大丈夫ですか?本当にごめんなさい!」
田中は慌ててハンカチでテーブルを拭く。
しかし、隆と田中以外の客は、散乱したランチプレートに気を取られている。隆たちのテーブルの騒動には、誰一人として気づいていない。
「あ!」
隆は急に勢いよく立ち上がると、食べかけのサンドイッチと田中奈々を残して、ラウンジから走り去った。
デスクに戻った隆は、四菱ホールディングスの基幹システムに管理者権限でログインした。
パソコンのモニターを見つめ、しばらく腕組みをして考え込む。
四菱グループにはおよそ六百社の会社があるが、なかでも、四菱自動車、四菱重工、四菱商事、四菱UFJ銀行がグループを代表する企業だ。
そのうち四菱自動車はargusのサイバー攻撃に遭い、大変な損害を受けた。
しかし、argusの真の狙いは他にあるのかもしれない。
「クレイオスは、倒れたランチプレートだ……」
隆はキーボードを叩き始めると、閉館間際まで作業に没頭した。
※※※
その日の深夜零時過ぎ、東京から二百六十キロほどの距離にあるガランとした工場で、ファームウエアに仕込まれたウィルスが密かに活動を開始した。
巡回する警備員や三百六十度に目を向ける監視カメラでも、当然その姿を捉えることは出来ない。
誰にも気付かれないまま、ウィルスは計画通りに狙ったデバイスに辿り着いた…………。




