第3話 手紙
香織と別れた伊吹英二は、北千住駅から荒川にかかる千住新橋を超えて、およそ二キロ半を走った。
三十五度を超える気温に、大粒の汗が滝のように滴り落ちる。
刑務所ではあまり自由に運動できる時間も無く、あの頃に比べると三年の間に体力が落ちたことを痛感した。
ただ、この辺りの街並みは三年の月日を感じさせず、昔と変わらない。
英二が通ったボクシングジムもあの頃と同じ佇まいで、古びたトタン屋根が、陽光をまだら模様に照り返していた。
英二はジムの正面から右に回り込み、路地に面した窓の隙間から中を覗く。
建屋の中央のリングで、若い男がスパーリングをする姿が見えた。
英二がこのジムを去る直前に入会してきた子で、パンチングボールの打ち方を教えたことがある。
リングの彼は見違えるほど腕を上げ、すっかりボクサーらしい身のこなしだ。
リングの周りでも数人の練習生が懸命に汗を流している。
サンドバッグを叩く重い音、縄跳びが床板を擦る乾いた音、シャドーする靴底のキュッという音、そして汗のムッとする匂い。
どれもが懐かしく、英二の本能を刺激する。
しかし、躰を動かしたい気持ちを抑えジムの中に目を配る。
会長の姿が無いことに、少し安堵する。
英二はそのまま路地から正面に戻り扉を開けて中を覗き込むと、ランニングマシンの近くで休む若い女性が目に入った。おそらくボクササイズの会員だろう。
「あの、これ会長に渡してもらえるかな」
英二は尻のポケットから一通の封筒を取り出し、小声で声をかける。
突然覗きこんだ男に若い女性は驚き、警戒した顔で英二を見る。
「あ、俺は前に所属してたもんで、怪しいもんじゃないから」苦笑いだ。
「そうなんですか。会長なら事務室だと思うけど、呼びましょうか?」
「いや、渡してくれるだけでいいんで」
「あ、はい…」
女性は怪訝な顔で「わかりました」と手紙を受け取り、軽く会釈をすると事務室の方に歩いて行った。
「…どっかで見たことあるな」女性が何気なく封筒を裏返すと、左下に『伊吹英二』と書いてある。
事務室に歩きながら「伊吹…」とつぶやいたとき、事務室の入り口脇に貼ってある大判の古いポスターに、同じ名前が印刷してあることに気が付いた。
女性が振り返ったときには、英二の姿は消えていた。