第24話 雷鳴
高気圧の縁に沿って、じめっとした西風が鈴鹿山系を登り、乾いた熱い熱気が濃尾平野を覆いつくす。
土曜日、フェーン現象の名古屋は、午前十時前の気温が三十四度に迫っていた。
九時十分に伏見駅に着いた小野幸雄は、近くの喫茶店でモーニングを食べながら、四菱モーターズ伏見店の開店を待っていた。
今日は待ちに待った待望の、クレイオスの納車日だ。熱帯夜の寝苦しさもあったが、楽しみで朝四時に目が覚めた。
クレイオスを受け取ったらその足で、名古屋駅前で娘と妻をピックアップして、レゴランドに行く予定だ。
今日は愛娘千尋の六歳の誕生日でもある。
小野は首を長くして、ガラス越しに見える四菱モーターズの開店を待った。
※※※
同じ頃、横尾隆は聖路加中央病院で受付をしていた。
集中治療室への見舞いには、親族の承諾が必要だが、英二から受付に連絡済みのため、手続きは簡単に済んだ。
事故の後はじめて、隆は香織の姿を目にした。
下半身は足先まで包帯で固められ、身体の至る所からコードが伸び、機械に繋がっている。
枕元のビニール袋に入ったクマのぬいぐるみが、まるで子供のベッドのようで、隆は微笑んだ。
隆はベッドの横の丸椅子に腰掛け、消毒済みの手袋をはめた手を伸ばす。香織の右手に手を添えるが、手袋のせいで直接肌に触れることはできない。
「香ちゃん……」
話しかけてみるが、香織はすーすーと呼吸を繰り返すだけだ。
まだ縫合の後が痛々しく残る、紫に変色した腕にそっと指を這わせると、糸に沿って盛り上がった、ぼこぼことした皮膚の感触が生々しく、心臓がぎゅっとなる。
–––– こんなことなら、もっと色んなところに、連れて行ってあげればよかった……
ナイロンの手袋をはめた手で香織の右手を強く握ると、カサカサと乾いた音がして、よけいに香織が生きていないような錯覚に囚われた。
弾けたように明るく笑う香織の笑顔が目の奥に浮かび、目の前で、ただ息をするだけの香織との落差に、いつしか隆は忍び泣いていた。
※※※
十時半過ぎ、納車手続きを終えた小野幸雄はクレイオスのアクセルを踏み、名古屋駅に向かっていた。
妻からLINEに『千尋と待ってるね。気をつけて』と返信が入る。
初めての運転だが、カー雑誌やユーチューブのプロモーション動画を観て操作は頭に入っている。小野は慣れた手つきでタッチパネルを操り、世界最先端の技術を心から楽しんでいた。
およそ十分ほど走り、名古屋駅前の交差点が視界に入ったとき「目的地を変更しました」と、突然ナビのアナウンスが流れた。
クレイオスは突如、小野の背中をシートに張り付けるほど加速すると正面の青信号を左に曲がり、駅前のロータリーに向かう。
ロータリーの先で、妻と手を繋いだ千尋がニコニコ手を振っているが、その鼻先を猛スピードで掠め、先行車のテールにぶつかりながら蛇行し、ロータリーの先の横断歩道に向かう。
クレイオスの接近に気付かずに、杖をついて歩く老夫婦や、母親のうしろをよちよち歩く幼児が、スローモーションのように小野の視界に近づく。
小野は泣きそうな強張った顔で、奥歯を噛み締め渾身の力でステアリングを握りブレーキを踏むが、ビクとも動かない。
「きゃー!」
小野がぎゅっと目をつぶった直後、ドン!と人を跳ねた嫌な手応えがした。
そのまま何人かを跳ねた衝撃を感じながら、クレイオスが対向車線に入ると、慌ててハンドルを切り損ねた車が駒のように何台もスピンし、十台ニ十台と次々に衝突し、重心を失った車がガードレールの上で激しく回転し歩道に転がり込む。
小野の視界が開けた瞬間、正面から走って来た大型トレーラーに時速百二十キロで突っ込み、フロントガラスから上が一瞬で無くなった。
同じ頃、福岡の博多駅前交差点、大阪の梅田阪急前交差点、そして渋谷のスクランブル交差点でも、暴走したクレイオスが大事故を巻き起こし、週末の行楽地が一変して、阿鼻叫喚に包まれた。
※※※
隆が集中治療室を出て一階のロビーに降りると、大型モニターの前に人だかりが出来、異様に騒ついている。
「緊急速報です。名古屋駅前、博多駅前、梅田阪急前、渋谷のスクランブル交差点に乗用車が突入し、大事故を起こした模様です。情報によると乗用車はいずれも、四菱自動車工業のクレイオスで ––––」
隆は咄嗟に人だかりを掻き分け、モニターに噛り付く。
「–––– 事故を起こした乗用車クレイオスは自動運転車で、目撃者によると、いずれも突然制御を失ったように暴走を始め、横断歩道に突入した模様です。続報が入り次第お伝えします––––」
「続いてのニュースです。五月に行われた米朝首脳会談の席で、トランプ大統領が、金正恩総書記に、韓国の米軍を縮小すると約束していたことを、先程サラ・ハッカビー報道官が––––」
モニターを囲む人々が「テロじゃないか?」「怖い」などと口々に話すが、隆の耳にキーンと耳鳴りがし、壁越しの音のように聴こえる。
隆は言葉を失ったまま、しばらく呆然と、モニターを眺めていた。
どれくらい経ったのか、ふらっとモニターの前を離れた隆は、窓際のソファに力無く背中を預け、スマホで“クレイオス”を検索した。
ニュースサイトはまだ詳細を報じていない。
ツイッターを見る。
–––– クレイオス マジ いらねー
–––– クレイジー乙
–––– 走る棺桶ww
揶揄する言葉に混じり、生々しい画像も次々に上がって来る。
大型トレーラーの下に嵌り、プレス機で潰されたような姿で黒煙を吐くクレイオス。
クレーターのようにボンネットが窪み、蜘蛛の巣状のフロントカラスに飛び散った血痕。
横断歩道に変な形で横たわる、生きてるのか死んでるのか分からない人々…………
クレイオスの下敷きになった香織の姿と、歩道に横たわる人の姿が重なり、隆は胸をえぐられるようだった。
前のめりになり小さく背中を丸めた隆は、両手でスマホを固く握りしめる。
「……だから…だから言ったのに……可哀想に……」
厚い雨雲が太陽を覆い隠すと、いつの間にか暗くなった窓の外が、一、二度白く光り、傍らの窓ガラスを、ばらばらと雨粒が叩きだした。
瞬く間に地面を激しく打ち付け白煙を漂わせた雨は、隆の心を写し取ったような黒く重い雨雲から、いつまでも地表を削り続けた。




